それを失礼だと感じられるセンスのこと_

それを「失礼」と感じられるセンス。

昨日、実家に帰省した。

といっても、同じ名古屋市に住んでいるので、地下鉄を乗り継いで一時間もしないうちに両親の住む家に着いた。

久しぶりに入った実家の和室には、新たに仏壇が備えつけられていた。
「ちょっと値が張ったんだよ」というそこには、祖父と祖母と愛猫コタロウ、そして、昨年七月に亡くなった叔父の写真が飾られていた。

父は、叔父のことを生前よく思っていなかった。
「アイツはダメな奴だ」と言うのを何度も聞いたし、電話が来て腹を立てているのも見た。そんな関係だったから、叔父も長男の父ではなく、浜松に住む次男の弟さんを頼りにしていて、お墓も浜松にある。

それでも、ちゃんとこうして写真を並べているんだなあと思うと、なんだかしみじみした気持ちになった。人は口で言うとおりに思っているわけではないし、もしかすると、亡くなってからの方が素直になれるのかもしれない。

リクエストをしたやわらかいお肉を頬張りながら、父の話をきいた。
「いいお仏壇を買ったねえ」というと「前は写真だけだったけど、そのままじゃ失礼だと思ってさ」と返ってきた。

この「失礼」を感じられるセンスは、どこから来たのだろう、と思った。
それは目下、ぼく自身が一番大事で、かつ、なかなか学ぶことができないと感じているものだったからだ。いいなぁ、と思った。

父はいつもお金のことを気にしている人だった。
それでも「これ」と決めたものには、この仏壇のように惜しみなくお金を遣う。ぼくが路頭に迷ったり、大きな金額のセミナーに行きたいと行ったときにも「軍資金」と言って、ぽんとお金を出してくれた。

父とぼくは、お金に対する価値観が合わない。
ぼくは、お金のあるなしをいつも気にしている父の生き方に反発して生きてきた。でも、そんなぼくは事あるごとに父のお金に助けられていた。

昨日、思い切って「どうしてお金のことをそんなふうに捉えるようになったの?」と尋ねると、驚くべき答えが返ってきた。

自営業をしていた両親(ぼくからみると祖父母)の収入が不安定で、その姿を見て「絶対になりたくない」と思ったのだそうだ。

自営業の親の様子を見て、会社員になることを決めた父と、その父の様子をみて自営業に進んだ息子のぼく。奇しくも父が「絶対になりたくない」と思っていた道を辿ることになったのだ。何の因果だろう。

それも含めて、昨日はなんだかいい時間だった。

なにより「父はいましあわせなんだ」と分かったのが大きかった気がする。
ぼくは長年「父のような生き方では幸せになれないのではないか」と心配していたからだ。それは「その生き方は間違っている」というぼくの強い信念が形を変えたものだったのかもしれない。

けれど、ほがらかに笑ったり、仏壇のことをしみじみと語る父を見るうちに、人の生き方について、どちらが正しいとか間違っているというのは、おそらくないし、少なくとも一個人に決められることではないということがふわっと了解できた。

翌日の今日、父に「ありがとう」とLINEでメッセージを送った。
「また手を合わせにいかせてもらいたいと思います」と書くと「いつでもどうぞど」と誤字の混じった返事がきた。

なにげないやりとりだけれど、うれしい。
そして人が亡くなったことが、こんなふうにして、ぼくに帰省するきっかけを与え、人と人をつなげていくのだと思うと、亡くなっていくことってやっぱりそんなに悪くないかも、と思えた。

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