忘れていた。
不思議なことが起きた。
次にひらこうとしている場のことを、テレビ電話で話したときのことだ。
話す前は正直「この場はひらかれないかも」と思っていた。
年末から年始にかけ、昨年からあたためていた企画がいくつも立ち消えになり、新たなことを始める機運になっていたからだ。
だから、ちょっと不安もあった。「不義理になったらどうしよう」とか。
前回がとてもよかっただけに、そのいい感じを崩したくなかったのもある。
そんな思いを話すと、相手は「そういうことを気にしなくていいよ」と言ってくれた。とても安心した。
それからしばらく話すうちに、ひらきたかった場がむくむくと立ち上がり、なんと「やりたかった気持ち」がよみがえった。
例えがいまいちだけど、風船人形に空気が入るとか、乾燥わかめが水の中でぶわっとふくらむような感じで(実際はもっと震えるような感動があった)。
その場でゆかいに過ごしている自分のイメージもはっきり見えた。「やらなくてもいいのかな」が「やらなきゃダメでしょ」に変わった。
あまりの変わりぶりに自分で驚いた。
自分の記憶、というか、自分自身を相手のところに置き忘れていたような感じがした。
忘れていた。
そして、それはとても大事なことだったのだ。
僕はいま、自分の興味関心に応じて、場をひらき、それを仕事にしている。
興味関心は多岐にわたるので、たとえば歌のことをしているときは、聞くことについては忘れている。どちらも大事に思っているのだけれど。
そんなふうにいくつもやっていると、時々「なにがしたかったんだっけ」と動機を忘れてしまう。忘れたまんまのことがほとんどで、ごめんなさいして次に行く。
よみがえったのは、今回がはじめてかもしれない。
それでわかったことがある。
立ち消えたものは、いっしょにやる相手よりも自分が考えたコンセプトを大事にしていたもので、よみがえったのはコンセプトより相手を大事にしていたものだった。
自分が考えた面白いことを誰かとやろう。
こういうときには、自分しかいないのだと思う。だから、僕が忘れると、企画も消えてしまう。
ところが「この人となにかしたい」と思ってつくる場には、最初から相手がいる。「相手といる自分」でやる仕事、という感じだろうか。ややこしいが。
こういう場合は「相手といる」状態になることで、そのときの自分ごと思い出せるのかもしれない。少なくとも今日起きたことは、そんな感じがした。
っていうか、薄情な僕よりもずっと、相手が僕のことを憶えてくれていたのかもしれないけれど。
そんなことを思いつつ、三月、あたらしい場をひらきます。
タイトルは『支援とエゴ』。
フェンスワークスの大久保尚美さんとひらく場です。
そして、この会はもう一人、同じくフェンスワークスの田中 聡くんがいてくれなかったら成り立たない場でした。
ありがとう。これからもよろしくね。
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