船のように_

だれかと共に揺れること。

先日、友人とメッセンジャーでやりとりして、うまく話が噛み合わなくなった。

ちょうど一つだけボタンを掛け違えているような感じで、なんだかしっくりこない。納得しようと思えばできるけれど、モヤモヤするから応答を続けてしまう。

そういうときは、相手もこちらも揺れている。
船酔いみたいに気分が悪くなる。ストレスがかかる。
「もういいや」と諦めたくなったりもする。

それでもしつこく聞いているうちに、あるところで話はすっと落ち着いた。
ちょうど小さな足場を水の中に見つけたときみたいに。

その感触が興味深くて、昨日、こんなことをフェイスブックに書いた。

人と共にいきることは、共に揺れることなのかもしれない。船みたいに。

人にとって、大事なところと大事なところが葛藤する潮目は、どうしたって歯切れがわるくなるし、伝わりづらい。「はっきりしない」と言われてしまうが、これから視界を良好にしていく海域だからだ。

そこを共にすると、揺れる。
不可解だったり、意味を取り違えたりして、不安定になる。
船酔いのようなストレスもかかる。

でも、諦めずに共に揺れていると、すっと落ち着く場所がある。
あ、そこで安定するんだ、という感じで。

「影舞」は、指先と指先をかすかに合わせて、その触れについていく芸能だけれど、体のバランスが崩れそうになりながら指先のふるえについていくように、人と人のあいだに起こる揺れについていくことで、行き着く先がある。

こないだ、桜の木の下で幼稚園児と影舞をしたら、彼女はすぐに親指でぎゅっと指を押さえた。不安定になるのがこわかったみたい。

これだと、揺れやふるえは出てこない。
同じように、相手の話を「こういうことでしょ」と決めつけてしまうのも、共にいることではないのかもしれない。

動きはなくなって安定したように感じられるけれど、二人のあいだに起こるはずだった運動がしんでしまうから。

なんかそんなことを思うと「落ち着かないなあ」というのも捨てたもんじゃないと思えてくる。だって、人のいのちはたえず揺れ動く振動だものね。

桜の女の子みたいに力で「ぎゅっと」すれば、揺れることはない。
ぎゅっとするってたとえば、

・ 計画どおりに事を進めること
・ 誰かの指示どおりに生きること
・ 力で人を支配して動かそうとすること
・ 人のことを勝手に決めつけて理解したつもりになること
・ 自分はこんなやつだと決めつけること

みたいなこと。力を使ってそういうことをすると、一見、安定した感じのする世界ができあがる。

でも、抑えつけられたそれは、底の方でブルブルと震えている。
いのちは、生きることをやめないので。

そうではなく、揺れてみたら。

ふっと力をぬいた指は、もう相手をコントロールすることはできない。
その代わり、相手の指先のふるえを感じ取ることができる。

お互いがお互いに属さないふるえについていくと、予想もしなかった展開が待っている。制御できないところに運ばれていく。そのことを人生だという人もいる。

だれかと共に生きることは、だれかと共に揺れること。

そうすることで、世界は体内の細胞のようにたえず運動し、更新されるものに見えてくるかもしれない。

でもちょっと疑問が残る。

なんで、影舞は「そっと」なのだろう。
どうして、そんなおっかなびっくりの力加減でなければならないのだろう。

その理由は上に説明してあるのだけれど、なんとなくいつもいつも「そっと」なのは不自然な感じもする。僕たちの中には力だってあるのだから。

その答えを探しに、これからまた石切へゆく。
影舞の先生で、僕の師匠、橋本久仁彦さんに会いにいくのだ。

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