天国じゃねえか_

あとから思い出すことは。

授業中、窓の外でどこかのクラスが体育の授業をしている。
プールの授業だ。

わあわあという歓声を聞きながら、ぼーっと見ているうちに授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。しまった、テスト範囲のノートがとれていない。

たぶん僕の記憶ではないけれど、そんなふうに気を取られることがある。

仕事や探求の目的、人生上の課題を解決するために、なにかをしていたつもりなのに、ふっと他のことに気を取られて、そのことの方がずっと強く印象に残ってしまう。

そんなようなことが。

おととい、昨日と僕は奈良の石切に行き、「きくこと」の師匠、橋本久仁彦さんと仲間たちと過ごした。

おとといは、他のメンバーの到着が遅くなり、橋本さんご夫妻と僕という不思議な組み合わせで食事をともにした。「どうしよう。間がもつかな」とすこし不安だったけれど、歌の話をしたり、僕の進路について聞いてもらったりして、とても楽しく過ごした。

翌朝は、近所のスーパー銭湯に行き、それから前泊メンバーと橋本さん夫妻と朝ごはんをともにした。そのあと、ワークショップ本編になって、午前中は「きくこと」についての実習があり、午後は近所の生駒山上遊園地まで行った。

この滞在には「きくこと」の探求という目的があった。
それに、これからの仕事にまつわる大事な話を聞いたおぼえがある。

でも、いま思い出せるのは、なぜか橋本さん夫妻と自分だけになってしまったときの、うれしいような、逃げ出したいような気持ちとか、歌について仕事について敬意について「我が意を得たり」という感じで言葉を交わせた手ごたえであるとか、

生駒ケーブルのファンシーなデザインの列車に興奮したこととか、

雨雲がかかったままの頂上にある遊園地が、

こんな感じでまるで死んだ後の天国みたいに思えたこととか、

その日のお客さんが自分たちしかいなくて、チケット売り場のお姉さんにめっちゃ驚かれたこととか、

死ぬほど寒くて「帰りたい」って内心思っていたこととか、なんかそういうことばかり。

そういえば、この間、桜の木の下で影舞をしたときもそうだった。

ワークショップの流れなんてお構いなしの子どもたちの妨害。

手を引かれてサボるようにして行った先の、川に足をひたす男の子の「冷てぇ!」という声。

そういうこわれたワークショップというか、「ワークショップ」という枠の外側にあるものに豊かさを感じてしまう。知りたいと思ったことよりそういうことが記憶に焼き付いてしまったりする。

僕はアホなのかな、とも思うが、僕だけじゃないような気もするこの感じ。

で、そういうことって、狙ってやれることじゃない。

他の人が来ると思っていたのに橋本家で「隣の晩ごはん」したり、嵐の日に山の上まで登ろうなんて言い出して遊園地が大霊界になっていたり、影舞するって言ってるのに子どもたちに捕えられて鬼ごっこに参加させられる羽目になったりするようなことは。

やろうと思ってもやれない、偶然としか言いようがない、たぶん二度とない、

そんなこと。

そんな思い出、そこであげた笑い声、そのときの自分の感触がかなり強烈で、すげー大事なはずで、ちゃんと聞いとけよってことがうろ覚えだなあと思う今日だ。

でも、もしかしたら、人生で大事なことっていうのは、そんなふうにあべこべにできているのかもしれない。

どうでもいいことがどうでもよくなくて、どうでもよくないと思っていることは忘れてしまっていいことで。

そう思うと、一生懸命、仕事や探求の目的、自分や他人の問題解決にあたってることってなんなんだろって思うけど、深く考えてもわかりそうもないな。

でも、楽しかったなあ。ほんと。

そのうれしさだけは、たしかに残っている。

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