駆け込み寺

現代の駆け込み寺。

昨日、フェイスブックにこんな投稿をしたら、

ほんとだよね、
いまなにか
とても困ったことがあったとして
「駆け込み寺」として、
人はどこに駆け込むんだろう。

友人が「行政」という答えを返してくれた。

そして、経営の相談、住居の確保、カウンセリングなど、困りごとに応じて行政には手厚いサポートメニューが用意されていて、とても感謝していると教えてくれた。

そうか、寺子屋が学校になったように、お寺にあった支援の機能は、現代では行政サービスなどに分化して洗練されているのか。

なにを隠そう、僕は社会福祉士である。
そうしたメニューがあることは散々学んだはずなのに、本当に困ったときの駆け込み寺として「行政」はまったく思いつかなかった。

「行政は助けてくれない」
なぜかそう思い込んでいたからだ。

でも、振り返ってみれば、市役所で手続きをするときにも、税務署の申告をするときにも行政の人たちはすこぶる感じがいい。「お役所仕事」という言葉があるけれど、そんなふうに感じたことは一度もない。

児童館でも行政の方々は、思いもあってきちんと仕事をされている。むしろ「困っている人」の側が敵視したりして、適切にサポートが届けられないことが多い。

そう、「なんとなく」行政は敵視されたり、信用されなかったりしている。ニュースが影響しているんだとは思うけれど。

僕も散々実際の行政の人たちに会っているのに、つい「お役所仕事」という目で彼らを見てしまうことがある。なんの役にも立たないのに、そうなる。イメージって強力だ。

それからもう一つ、興味が湧いたことがある。

それは、なぜこれだけ「いい人」たちが集まっているのに、集団としては機能しないのか、ということ。

児童館でも「いい人」のチームであっても、なかなか突破できない「溝」がある。先のイメージの壁や家族という壁に阻まれて、本当に必要な支援が届けられない。

みんな志も高く、とてもいい仕事をしている。なのに、集団になるとコミュニケーションが閉塞したり、手が出なかったりする。

どうしてそんなことが起こるのか。そんなもんなのか。

そう問うとき、僕が普段から不思議に思う

「なぜ、こんなにいい人が、これほど苦しまねばならないのか」

という疑問と似た感触をおぼえる。

この二つは、つながっているのだろうか。

それこそ「なんとなく」なのだけれど、これらの問いの向こうに「現代」に横たわる苦しみの正体が見えてくるような気がして、じっと目を凝らしている。

記事を読んでくださって、ありがとうございます。 いただいたサポートは、ミルクやおむつなど、赤ちゃんの子育てに使わせていただきます。 気に入っていただけたら、❤️マークも押していただけたら、とっても励みになります。コメント、引用も大歓迎です :-)