だっこしておんぶして

赤ちゃんと私。

げんこつやまの たぬきさん
おっぱいのんで ねんねして
だっこして おんぶして
またあした
(童謡『げんこつやまのたぬきさん』より)

今日は「『あなたの時間』に起きたこと。』という仕事の初回だった。

15分間語ってもらったことを録音して、文字起こしし、後日それを丁寧に読み解いていくというこの仕事。

最初の体験者になってくださったのは、北海道に住むお母さんともうすぐ一歳になる娘さんだった。

この仕事において、ぼくは「辿り手」「守人」という役割を担っている。
語られる言葉を一字一句、言葉どおりに聞き、時に声にして返す仕事だ。

今日はお母さんのみならず、娘さんもお話しされたので面白かった。
意味がわかるお母さんの言葉に比べて、娘さんの話されることは彼女独自の言葉なので、辿るのがとても大変だった。

「あー」なのか「うー」なのか、いや、そのどれでもないような、すぐには真似のできない音。世界にはこんなにも音があったのかというような音。

音程も低いところから高いところに一気に上がる。
赤ちゃんは、ものすごいシンガーでもあると気づいた。

時々、ぼくたちは三人で声を合わせた。

「あー!」

その瞬間はもちろん、なんの意味もないのだけれど、なんともゆかいで忘れがたいインパクトがあった。「しあわせ」がもうそこにある、という感じがした。

録音のあと、お母さんがしていた話をいま思い出している。

それは、会社勤めから子育てに入ると、急に赤ちゃんにおっぱいをあげて、おむつを換えて、寝かせるだけで一日が終わる生活になって、時々、不安になるという話だった。

ぼくはお母さんになった人たちがこう語るのを、何度か聞いたことがある。

最初は、会社員をやめた三十代前半。
ちょうど産休に入っていた友だちのところに遊びにいったときだ。

そこには、会社とは全く別の、余るほどゆっくりした時間が流れていた。
子どもがすぐに散らかすので、部屋の片付けも追いつかない。
生活に「よそ」がなくなり、友だちはお母さんとなって、その時間と空間の中で暮らしていた。

なんの目的も、方向性もないような、朝日がのぼって、やがて暮れていくようなぽつんとした部屋。

そこは、ぼくにとってとても快適だったが、友だちは不安だったという。
ひとりの人の命を育むという重大な仕事に携わっているのに、なんだか自分が無価値になったように思えたらしい。

それは、社会の価値がいかに転倒しているかの証拠のように思えた。

ぼくたちだってもともとは、おっぱいのんで、ねんねして、抱っこしておんぶしてまたあした、の生活をしていた。

でも、それなりに育ったいまは、それでは耐えられない。
SNSをしたり、スマホゲームをしたり、仕事をしたり、ついしてしまう。休んだり、無為に過ごしたりできなくなっている。

でも、生きていく上での健やかさとか豊かさを考えるとき、その「抱っこしておんぶしてまたあした」の時間って、多くのお母さんたちがみな経験している確かな時間だ。

それなのに「あー!」と声を合わせるだけで、うれしくなるようなあの時間は、その立場にならないと、ないも同然にされてしまう。

実際、ぼくらのしているあれこれだって「抱っこしておんぶして」とどこが違うというのだろう。大差ないかもしれないし、もしかしたら、命や未来に直結しているという意味では「抱っこしておんぶして」の方が上等と言えるかもしれない。

おっぱいのんで、ねんねして、抱っこしておんぶしてまたあした、の生活で十分満足して一日を終えられる赤ちゃんは、ぼくらよりもよっぽど世渡り上手なのかもしれない。ぼくらの方がよっぽど、あれやこれや忙しくして、事をややこしくしているのかもしれないですよね。

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