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Art of Life

この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ。
(ダンテ『神曲(地獄篇)』より)

「くにちゃんは、その人の地獄の底までついていく」

という話をしたのは誰だったかな、夢の中だったかな、と思い返していたら、友人、佐川友美さんの感想に行き当たった。

円坐という、不確実の地獄の中に
一体いつまで、くにちゃんは飛び込み続けるんだろう。

私は見ている。
見届けるには、一緒に落ちていくしかない。
「飛び込む」というより「落ちる」と言った方がしっくりくる。

しつこいようだが、二月二日の円坐のことがまだ消化できていない。

あの日、くにちゃんこと橋本久仁彦さんは最後まで「地獄」についた人だった。

その日、参加者から投げかけられたそれぞれの「しあわせになる方法」は全く意味をなさなかった。

場に置かれた苦しみに対し、人生がうまくいっている人は、自前の幸福論を展開して、早々に離脱しようとした。

けれど、うまくいかない。周りの共感を得ないし、ちっともらくにならない。嘆きや苦しみだけがいつまでも生き残った。

自分の「しあわせになる方法」が歯が立たず、黙るしかなくなった人たち。
それは奥さんや身近な人の苦しみを前に、何度もくじけてきた自分自身の姿だった。

松尾芭蕉は「野ざらし紀行」の中で、旅の途中で出合った捨て子にこう言い放つ。

唯これ天にして、汝が性の拙きを泣け
(ただただ天が成したことで、お前のもって生まれた悲運の定めと、嘆くほかないのだよ)

芭蕉が非情の人だったとは思えない。そうとしか言えなかったというか。

同じように、円坐の中に現れた地獄は参加者の持論を黙らせて、底の底まで突き進んでいった。嘆きが他の人の嘆きを呼んで、輪郭を明らかにした。

それは一人ひとりの生き方や信じてきたものがぶつかり、砕け散る場だった。

「Art of Life」

とは美しい言葉だが、本当のアートはこういう地獄絵図みたいなものなのかもしれない。

そんなことを思っていたら、フェイスブックでこんな文章がシェアされていた。

職場における心理的安全性とは、お互いの関係が尊重、信頼、率直さに基づいていて、必要な時にはいつでも異論を表明できると感じている状態。組織や人の問題点を指摘しても、そっと無視されるようなことがない状態。
(『How Fearless Organizations Succeed』より)

それは「職場の基準を緩めること」でも「職場を居心地よくすること」でも「人当たり良くにこやかにしていること」でも「とにかく褒めること」でもないという。

僕は思う。
「お互いの関係が尊重、信頼、率直さに基づいていて、必要な時にはいつでも異論を表明できると感じている状態」、つまり「何を言ってもいい」と信じられる場というのは、その場にいる人、特に場を開く人がどこまでのことを聞く覚悟があるかによって決まると。

聞く覚悟のない人は「そっと無視する」からだ。

地獄までついていく人というのは、その意味で強い。
そこまで行かずに、先にふわふわした天国をつくろうとする人とは違う自由さを持つ。

先の円坐で、僕はそれを思い知った。
円坐をひらく「守人」はアーティストに近いと橋本さんは言ったが、それは身一つで地獄に落ちていく人を指しているように思えた。

そして、その人だけが地獄の底にある真実を目にするのだと思う。

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