花と泥

花と泥。

いま、この本を読んでいる。

殺人など、凶悪犯罪を起こした受刑者と刑務所で向き合ってきた、篤志面接員、岡本茂樹さんの著書。

犯罪を起こした人に、反省させても反省はしない。
そうではなくて、本音を聞く。そんなことをするに至った傷を聞くのだと岡本さんはいう。

受刑者にとって、本当に反省するために必要なことは、自分の本当の気持ちを話すことです。そして、「本当の気持ち」とは、実は「負の感情」なのです。(略)この感情が解放されないかぎり、被害者のことを考えるには至りません。(同書 P.45)

それが「被害者についてなんとも思っていません」であっても、まずは本当のことを聞く。それが先に出てはじめて、被害者に対して思いが至る。

この感覚、とてもよくわかる気がした。

たとえば、児童館の学習会で勉強に向き合う中高生たちの中にも似たものを感じる。

彼らの家庭はひとり親だったり、経済的に恵まれなかったりする。
そのバランスの悪さを引き受けて、彼らには言葉にできない「本当の気持ち」すなわち「負の感情」がたまっている(ように感じられる)。

ちょうどホースの中に泥がつまるように、その「負の感情」が外に出ないことには、他のところに水(意識)は流れない。勉強に意識を向けようにも「負の感情」に気をとられて向けられないというわけだ。

その気持ちを打ち明けてもらうには「コイツなら話してもいいかな」と思える信頼関係が必要になる。そして時々、相性のいい大学生サポーターがそれに成功して気持ちに触れる。

すると、彼らの間になにかが流れる。
そして、どういうわけか、物事が進展したり、勉強への意欲さえ出てきたりする。

逆に、勉強を強要するとますます難しくなる。
意識を「負の感情」にとられているのに、無理やり勉強に意識を向けようとすると、かえって「負の感情」が膨らむことになる。
結果、勉強がどんどんいやになる。

必要なのは、ホースにつまった泥を取り除くこと、すなわち「聞かれること」なのだ。

同じことが、僕の日常でも起きる。

例えば今日、僕は花見の最中に奥さんと言い合いになった。

そのときには、花は全く目に入らなかった。
他の見物客は、鮮やかに開花した桜に歓声を上げていたのに、その声は耳に入っていても、僕にはただ、曇った空と冷たい空気と重たいなにかしか感じられなかった。

でも、お互いの言い分を言い尽くしたら、僕らの間に交流がよみがえった。
あたたかい気持ち、となりに人がいるぬくもりが。

その後見た桜は、きれいだった。
ここに、こんなにきれいなものがあったのか、というくらい。

同じように、誰かと険悪になると、意識にそのことが詰まって、ごはんもまずくなる。生きていても、彩りがなくなる。

その花がみえているか。ごはんがうまいか。
これは小さなことのようで、生きることそのものに関わる大問題である。

生きていてうれしくないとき、たぶん僕らは「本当の気持ち」を妨げる、泥のような思考や感情にとらわれている。強く信じてきた物語がつまっていることもある。

誰かと生きることは、その泥をぶつけあって粉砕し「本当の気持ち」に触れることを助ける。

でも「本当の気持ち」の前につまった泥をなんとかしようとして、かえってホースをつまらせてしまうことも多い。つまった状態が「自分」だと思っていると、あえてそこに戻ろうとしたりもする。

どんなに信じていても、信じているものが、その人を幸せにするとは限らない。

それよりは泥を取り除いたあとに咲く花を、ずっといっしょに眺めていられたらいいのにな。

散々、泥にまみれているうちに「その日はいつ来るのだろうか」と途方に暮れることもある。もしかしたらこの文章も、ホースに泥をつめているにすぎないのかもしれないよね。

記事を読んでくださって、ありがとうございます。 いただいたサポートは、ミルクやおむつなど、赤ちゃんの子育てに使わせていただきます。 気に入っていただけたら、❤️マークも押していただけたら、とっても励みになります。コメント、引用も大歓迎です :-)