写ってる_

写るんです。

「写真というのは、いつも撮影者のまなざしを写しているんやと思うよ」

と人生の先輩から聞いて、なんだか感動して、いままで撮った写真を見返したりしている。

グーグルフォトを開くと、奥さんの写真ばっかり。そのときそのとき、いろんな表情の笑顔がある。そして、それを撮っている僕のまなざしがある。いつも笑っているのがわかる。

しばらくスクロールしていると、この写真が目に留まった。

ずいぶん小さい頃のぼく。嬉々として笑っている。そしてハミパンだ。

右端にあるちいさな手は、妹の手だ。歩行器につかまっているから、まだ一歳くらいか。言葉をおぼえる前の、かわいいさかりだ。

撮影者は、だれだろう。父かな、母かな。
でも、妹を見ていた手を止めて、思わずぼくの方を撮ったんだなとわかる。

なにがうれしいのか分からないけれど、とてもうれしそうだったから。

我ながら、こんなふうに油断して写真にうつることって、もうできないかもというくらい、いい写真だと思う。

そして、それだけの安心感を与えるまなざしが、そこにあったのだと思う。

人は、他者のまなざしにとても敏感な生きものだ。

児童館の子どもたちといると、それがよく分かる。特に家庭がうまくいっていない家の子は、執拗にこちらの注目を求める。大した用もないのに声をかけたりして。

心理学的には「承認欲求」ということになるのかもしれない。人に承認されるために生きてはいけない、みたいな話も聞く。けれど、本当にそうなのかなという疑問もわく。あれはなんというかもっと、切実なものに思えるからだ。

「わたしをみて」

と呼びかけて、応じたまなざしによって安心できる。
そんな大事ななにかが、あるのではないか。

たとえば、生まれたばかりの子どもは、他者のまなざしが居場所になる。
最初は目もよく見えないし、ことばもないから、余計にまなざしが存在感を増す。

そして「○○ちゃん」、例えば、ぼくなら「ゆうすけ」「ゆうすけ」と呼びかけられて「ゆうすけ」になる。漢字の「祐典」になるのは、もう少し先の話だ。

先に他者がいる。他者が自分の居場所になる。僕たちはそこに後から登場する。

だから、そこにいるの他者の存在感って身の安全にかかわる、ものすごく大事なことなのだ。

そんなことを思った。
僕は赤ちゃんから話を聞いたわけではないから、仮説にすぎない。でも、あの執拗な注目を集めたい気持ち、逆に注目されることを怖がる気持ちの中には、人が「ここにいてもいい」と安心できるための、大事なものが入っているように思えているのだ。

パチリ。
今日も写真を撮るとき、そこには「ここにいましたよ」という事実が写る。
それは撮る人がいて、撮られる人がいて、まなざしがあって、空間があって、

そして

「そこにいてもいい」

という承認も写る。写るんです。

なんていったら、大げさすぎるかな。

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