シーラカンス_ステーション

歌とともにシーラカンスの棲む場所へ。

今日は「あなたのうた」第一期の、お一人目の歌をお届けに行った。

「あなたのうた」は、十五分お話を聞かせていただいて、そこからあなただけの、世界に二つとない歌をつくる、という仕事だ。

歌の披露は基本的にオンラインで行っているけれど、近くに住んでいたり、旅費を負担いただけたりしたときには、直接ギターを抱えてお伺いしている。

今日は、午前中に一回目のお披露目をした。
小学校の遠足にぶつかって、子どもたちの元気な声がそこらじゅうでしていたので、人気のない隠れ家みたいな梅林を見つけて、そこで歌った。

最初の最初にお披露目するときには、いつもとても緊張する。
でも、その緊張やぎこちなさが、歌っているうちに「相手と接続されました」と言うかのような震えに変わっていく。ハートがぶるぶるっと震えたり、足下から震えが立ち上がってきたりする中で、だんだんと歌以外のすべてが意識から消えていく。

「すごいね……すごいね……すごいね……」

というのが、聴いていただいた最初の感想。
もう一度、歌うつもりだったけれど「消化しきれない」ということで、お昼ご飯を食べに行くことになった。

ごはんを食べながら、この曲の歌詞がどんなふうにできあがっていったのかを話した。「最初は『あなた』がもっといっぱいあったんだよ」とか「途中のこのフレーズが入ってきて、がらっと変わっちゃったんだ」とか。

不思議なことに、歌詞の大きなところを変えた時期と彼女の人生に変化が起きた時期が符合していた。説明がつかないので「偶然」ということにしているけれど、そうでもない気もした。

それから、堰を切ったように僕たちはしゃべりまくった。

歌というのは、不思議な媒体だと思う。
ふだん話せないようなことも歌詞の中に容れられるし、節(メロディ)がつくことによって、言葉より多くを伝えることができる。

それに歌を交わした後だと、安心感や自由度がぐんと増しているような感じがする。「こんな話、誰にもしたことがないんだけど」という話を誰かにしたり、聞いたりしたことって誰でもあると思うけれど、そういうことも起きやすい。「歌」が介在していることによって、なにかが緩むというか、許される感じがある。

安心させようと思って、自由にしようと思って、歌をつくっているわけでも、歌っているわけでもないのに、なぜかそうなって、話がはずむ。ごはんがすすむみたいに。本当に不思議。

そんなわけで、お互いへとへとになるまで話し込んだ。
あっという間に食事はたいらげて、気づいたら三時間経っていた。

それから、元の公園に移動して、二度目のお披露目をした。
もう子どもたちは帰って、誰もいなくなっていたので、前回、十五分のお話を聞いた場所まで歩いていった。

そのときは、話し終わる間際に桜吹雪が舞ってきれいだった。
今日、その桜の木は鮮やかな新緑に変わっていた。

僕は芝生に座りこんで歌った。彼女は寝ころがって聴いていた。

そうそう、お昼ご飯を食べている最中に、歌詞を二ヶ所変えた。
もっとその人に、そして歌に、ふさわしい歌詞が思いついたのだ。

今度はぜんぜん緊張しなかった。
「もう少しまるく弾いてほしい」とリクエストがあったので、ゆったりとまるく演奏した。風が気持ちよくて、たのしかった。

「ずいぶん深まったね」と彼女が言った。
そう思う。歌を介して、僕たちはずいぶんと深い、深海の底まで行ったような感じがする。別れ際はちょっと酸欠気味だったくらい。

人と人はどこで出会うかによって、話せることも起きる出来事の質も違うような気がする。そして不思議だけれど、そういうときって誰もが「深まった」という。「高まった」ではなく「深まった」と。

僕たちが暮らす世界の深海には、一体なにがいるのだろう。
でも、シーラカンスが棲んでいるようなそこでだけ打ち明けられる話って、きっとあるのだと思う。

そこに行くには、映画『海猿』のように気の合うバディが必要だ。
今日、歌はそのバディになって、僕たちを深海まで連れていってくれたんだと思う。

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