ひとの言葉の森を歩く_

ひとの言葉の森を歩く。

三月三日は、ひなまつりだけど、耳の日でもあるらしい。

そんな今日、昨年秋から半年にわたって開いてきた『聞くことの愉しみ、聞くことの深み』の最終回 <急> が行われた。

会場は名古屋市の「聞法」のお寺、西念寺さん。
<序><破><急>に、スピンオフの<序々>を加えた四回の道行きを最後まで見届けてくださった。

今日はかねてからやってみたいと思っていた「みんなでレビュー」を試みた。いつもは一人が読み解いている15分の語りを、みんなでわいわい言いながら読み解いていこうというものだ。

実際やってみると、思った以上に面白かった。
僕一人では到底見つけられなかった面白いこと、興味深いことが、参加された方々から次々に報告され、語りが意味合いを濃くしていった。

それは自然教育の世界にいる「インタープリター」たちの営みに似ていた。

「自然と人との仲介となって自然解説を行う人物」(ウィキペディア)であるインタープリターは、森の中を歩いて、ドングリやフンの跡からどんな動物がいたかを察知したり、キノコが生えている場所なんかをいち早く見つけたりする。

同じように今日の僕たちは、みんなである人の言葉の森を散策し、そこにある美しさや恵みに触れた。

人は、なにげない言葉に、その人特有の意味合いを込めることがある。
今日で言えば「ちょっと」「すごい」「一緒」といった言葉が、語った人の性格や思いをよく表していることが明らかになった。

語りと周囲の音や話し声がシンクロして新しい意味をつくったり、外の音も含めて全体が一つの交響曲のように鳴り響いている場所もあった。

憧れや諦めを幾度も感じて萎れそうになりながら、野生の花のようにもう一度たくましく咲き直すシーンもあった。

「ただ黙って、相手の言葉をたどる」ことにより生まれた空間が、そうした観察を可能にしていた。それはあまりに細かいので、スローモーションにしてみないと認識できないのだ。

今日、散策し観察したのは、たった15分の語りで、その人のほんの一部だ。でも、それだけでも「語る」中で人がいかに複雑なことをしているかを見て取れた。

人って、かなりすごいのだ。

「あなたはだれですか」ということを驚くほど人は知らない。
「わたしはだれですか」ということも同じくらい知らない。
というか、それはわかりっこないのだ、ということをこの読み解きは教えてくれる。

けれども、この読み解きを経ると、なぜか人と人の交流がさかんになり、仲良くなる。ふしぎなんだけど、今日もそんな日でやっぱりみんな仲良くなって、楽しかった。やってよかったな。

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