いつか咲く花。
「僕は自分をニートだと思っている」
と大島君は言った。
「なんで?」と僕は思った。
彼はアルバイトではあるが、僕と一緒に児童館で学習サポートの仕事をしている。時には団体の他の仕事も引き受けて、僕よりも忙しいくらいだったからだ。
3月9日に開催した『支援とエゴ』の一コマ。
ぽかぽか陽気だった気温が夜になってぐっと下がり、僕たちはストーブを囲んで彼の話を聞いていた。
会社員をやめて以来、家業を手伝っていても、アルバイトしていても、大島君は自分を「ニート」だと捉えてきた。
「自発的に働く意志がない」。
自らのその状態をずっと、ごまかすことなく見ていたのだ。
その間、これからどうするのか、と親からは幾度となく言われたらしい。
よく働く青年だったので「うちで働かないか」と声をかけられたこともあったという。
それでも彼は応じなかった。
「自発的に働く意志」がなかったから。
大島君は自らニートであり続けた。
そして最近になって、いまいる児童館の職員になることを決めた。
「ここにいる人たちと働きたい」と思ったのがその理由だったという。
「芽が出た」
と、その決断について彼は語った。
「もう少し早く動いてもよかったんすけどね」と自嘲気味に話していたけれど、その場にいた僕たちはみなすごい話だと思った。
人は、そこまで自分の納得感を手放さずにいられるものなのか。
僕の中に、そのような感動が走った。
周りからいろんなことを言われているとき、大島君には芽が出るかどうかわからなかったという。相手の言うことが正論だとも思ったそうだ。
それでも「違う」と守り続けた。
意固地で頑固なことだったかもしれないけれど、守り続けた。
雨風にさらされるのをそっと手のひらで守りながら、土の中にある種の発芽を待つ。そんな姿が話を聞きながら目に浮かんだ。
もしかしたら、土の下で根腐れしているかもしれない。
芽なんて出ないかもしれない。
それでも、ここで動くのはなにかちがう。
その「なにか」の感覚を信じる。
というか、それしかしようがない。
そのような姿勢は、周りからは意味不明に見える。
もっと楽な道、効率的な道、あるいは、見ている人が安心する道につい誘導したくなる。
だから、いろんな人が、いろんなことを言う。
それは雨が降り、風が吹くのと同じように止めることはできない。
時にそれは良心からの言葉でもあるのだから。
でも応じない。守り続ける。
そこにある抵抗や違和感、あるいは自分の内側だけで感じられる、芽生えの予感を信じて。
僕がこの話をこんなにも好きだと思うのは、僕自身そうして生きてきたからだと思う。
会社をやめてから、僕はどんどん周りの人に理解されにくい道へと進んでいった。
戻ろうと思うこともあったけれど、いつもダメだった。
「こっち」としか思えないけれど、そっちになにがあるのかは分からなかった。
大島君は、おなじことをしていた。
そして、自分にしかわからない「芽生え」まで、それを守り切ったのだ。
出た芽はやがて、自分にしかわからない花を咲かせるのだ、と僕は思う。
その日はすぐに奈良にいかなければならない用事があって、ばたばたと別れた後の近鉄でふとフェイスブックの「過去の思い出」をみた。
そこに「十年前」「退職しました」とあり、以前勤めていた会社の名前があった。
「そうか、今日は、会社員をやめてから十年目の日でもあったんだ。」
その十年、僕は人に理解されないようななにかを守り、待ち続けた。
そして、いくつかの花が咲くのを見た。
それは出てくるまで、自分にもなんだかわからない。
あらかじめ言葉になんかならないし、もちろん保証なんてできない。
でも、自分のからだの奥のほうにむずむずと、その芽生えを予感する。
そして、その人なりの春に、その花は咲く。
それは守り続けた分、自分にとってかけがえのない価値をもつ。
そういうものが、人にはある。
見えなくても、わからなくても、伝わらなくても、あるのだ。
たったいまも、その芽生えを待って、必死になにかを守り続けている人がいるのだと思う。
その人とともに、花の咲く日を待てる人に、僕はなりたい。
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