金曜#17 落下の解剖学を見て

後付けの真実らしさに一体どれだけの価値があるだろうか?
この映画はタイトルの通り「落下」を解剖する。
しかし、解剖と言っても切れ味の良いメスや輝度の高いライトを用いて人体の専門家たる法医学者が人間の中身を覗き込むのでは無い。
不完全な情報と物言わぬ死人が残した曖昧な状況、そして唯一の武器である論理を用いた我々が感情論を持って人間の心を覗き込むのである。

本映画のあらすじは以下だ。こちらは公式サイト(https://gaga.ne.jp/anatomy/about/)からの引用である。

人里離れた雪山の山荘で、男が転落死した。
はじめは事故と思われたが、
次第にベストセラー作家である
妻サンドラに殺人容疑が向けられる。
現場に居合わせたのは、
視覚障がいのある11歳の息子だけ。
証人や検事により、
夫婦の秘密や嘘が暴露され、
登場人物の数だけ<真実>が現れるが──。



感想


正直に言って冒頭の30分程度はかなり退屈な映画であった。若干居眠りしたくらいだ。しかしこの映画が変貌を遂げるのはサンドラが法廷に入ってからである。今までワンサイドで描かれていたサミュエルの自殺が、検事側の証人尋問によって突然揺らぎ始める。片方から覗き込んでいた真実とはこんなにも不完全で脆弱なのかと驚愕し、眠気が覚め、目を見開くことになった。そこからは指数関数的に物語が面白くなっていく。果たしてこれは自殺なのか他殺なのか。
この物語のテーマを大きくわけて2つ書いておこうと思う。もちろんこれは公式の見解では無いので、私の一意見として読んで欲しい。

1つ目のテーマは「人間の非全知性」である。
人間は未来を知ることは出来ない。天気予報は予報であり、統計的推測はあくまで推測である。そこに「事実」は一欠片もない。
そして、これは忘れがちな真実であるが、
人間は過去を知ることも出来ないのだ。
もちろん、映像や画像を通して動作や表情を伺うことは出来る。しかし我々の「何故そうしたか?」、「何を思っていたか?」という質問に対する回答は得られない。ここで言う得られないというのは、真実性を担保できないという意味である。例えば、水を飲んでいる人間に対して「なぜ水を飲んだか」と問うたなら「喉が渇いたから」と回答がされるだろう。だが、果たしてこの回答が真実かどうか、質問者に知る術はあるのだろうか?ましてや相手が死んでいたのなら、我々にできることはただの推測であり、そこに真実があるかなど神のみぞ知ることである。
私は人間が全知では無いことはわかっていて、それでも自分の周りのことくらいは知っているつもりだった。しかし、この映画はそんな私に「お前が知っていることなど所詮はお前の事だけだ」と突きつけてくるのである。ダニエルが審理を通して両親の不和や悩み(それすらも真実なのか分からない。)を知っていくように、私も自身が無知であることを突きつけられた。

2つめのテーマは「好奇心」である。
深く書くとネタバレになりかねないので簡単に書かせてもらう。この映画は最終的に視聴者に対して「さあどちらだと思う?」という問(何がかはあえて書かない)を投げかける。私も視聴後に同行した友人とどちらかを話し合った。しかし、これこそがこの映画が我々に張った罠なのではないだろうか。
問に対する答えがどちらだったとしても、ダニエルが受けた愛は本物で、失われた命は戻らない。だとすれば我々の好奇心は野暮そのものではないだろうか?
この映画は現代社会が持つ大衆の好奇心の邪悪を我々に鏡として映しているのかもしれない。

以上が感想である。間違いなく名作であることは間違いないので、上映している映画館を見かけたら是非とも視聴して欲しい。それではこの辺りで失礼する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?