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2019年4月富岡浪江取材 これで復興したと言えるのか

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<続き>

大堀小学校を見た後、すぐ隣の大堀幼稚園へ。昨年10月、正門は見たが、すぐ側で家の新築工事が行われており、人目を気にしてよく様子を見ることは出来なかった。葛尾村や飯舘村で動物の給餌活動をしている知人から、中の様子について話は聞いていたが…

桜が綺麗だけど、その先の園舎は…

鉄筋コンクリートの小学校は綺麗に片付けられていたが、脇のプレハブの幼稚園は8年前のままだった。戸は開きっぱなし、窓が開いていたり、ガラスが割れていたり…周囲に何軒か住人が帰還した家があるため、そちらに気を使いつつ、撮影を続けた。

僕の体重で床が抜けても嫌なので、この位置から先には進まなかった。そもそも、廃墟探索用の装備などしていないし。

(寂しく咲き誇る桜)

何もかも、8年前のままだ。

ここは内陸で、津波の被害は受けていない。園舎も、地震で崩れたようなあとはない。8年経っても、再開どころか片付けさえ為されず、ひっそりと静まり返っている。原発事故がなければこんなことはあり得ない。

内堀知事は「福島は復興した」と言った。自民党系の浪江青年会議所は「浪江は復興した」と言った。避難指示を解除すれば復興なのか。空間線量が毎時1〜3μSvあっても、8年前のままの幼稚園が廃墟として朽ち果てていても、小学校の校庭がイノシシに掘り返され、糞が大量に転がっていても、「復興した」と言えるのか。

「デマ屋」呼ばわりされることの多い僕だが、さてデマ屋は誰だろう。原発事故が8年経って収束したかのように言い募ることこそデマではないのか。健康被害があろうがなかろうが、これこそがまさに「原発事故の影響」ではないのか。それに対して適切な賠償を要求することは当然ではないのか。

職員室。2011年3月の予定が書かれたままだ。

壊れてしまった入り口では、ブルーシートが風に揺れてはためいていた。

(校庭を見渡す)

子供たちが遊んでいるはずの遊具が寂しく建つ姿は、いつ見ても悲しい。

ここもイノシシに掘り返されている。

かつて子供達の楽園だった場所。今では周囲に高齢者しかおらず、敷地内には僕のような物好きしか足を運ばない。

モニタリングポストはこの数値だが、僕の持つガイガーフクシマは常に1μSv/h以上を表示している。僕の知る福島県民でこの数値を信じている人はいない。上がったか下がったかの目安にしているだけだ。

大堀小学校、幼稚園。ここに子供が戻ることはないだろう。「放射能安全」「福島差別」「風評」という人たちは、それを「非科学的」だというのだろうか? そこに暮らしがあることを想像できない人間に、科学を語る資格があるのだろうか。科学は屁理屈を捏ねる知見を磨くためのものなのだろうか? 科学とは、人の暮らしに資するものではなかったか。

原発事故さえなければ。これまでにも何度も過ぎった言葉。「原発事故の死者はいない」とかなんだとか、そんな言葉を見たり聞いたりするたびに、全身の血管が沸騰するような思いがする。

小学校と幼稚園を後にし、線量計を携えて、高瀬川脇のフレコン置き場へ向かう。

高瀬川。絵本「楽園」でも、この風景を描いた。里山は美しく、川の水は澄んでいる。しかしここから見える光景は、著しく放射性物質で汚染されている。この先は帰還困難区域だ。あの山はどれだけ汚染されているかわからない。

放射性物質は川の底に沈むと聞く。本当か嘘か、僕は知らない。

帰還困難区域ゲート。桜は咲くけれど、あの家には誰も帰れない。

この先には容易に進むことが出来るが、そもそもそれは許されないし、酷く汚染されてるので入りたくない。ゲートで放射性物質が止められるわけではないのに、不思議なものだ。

僕は海より山が好きだ。毎日山を見ながら暮らしたいと思っている。でも、見ていてこんなに悲しくなる山はここにしかない。

ゲートを背にして、常磐道の下をくぐり、すぐ近くのフレコン置き場へ向かう。

<続く>


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