さよなら神様

僕のおとんは宗教心がある人でした。でもまじめに一つの信仰を続けるというよりも、人の良さから知り合いや親族に勧められた宗教に次から次へと断りきれず入るという感じでした。

聖教新聞が毎日3部ずつきてた時もありました、少し毛色は違うけど50万以上する健康になる椅子も買ってきたりしました。

僕が高校生の頃、身内や、うちの家族の周りで不幸なことが続いた時がありました。すると親戚の人達がうちに来ました。
それまでおとんは勧められるがままに神棚などを家に置いてましたが、親戚はその神棚が不幸の元凶だからこの神棚に代えなさいと新しい神棚を持ってきました。うちに新しい神棚を祀ると、もうこれで悪い事は起きないからと言って帰って行きました。

色々な不幸に疲弊していた両親は言われるがままにその神棚を受け入れました。それはその神様にすがるというよりも、色々な事に疲れている両親が、さらに親族関係という人間関係に疲れないようにするための判断のようにも見えました。

その直後、事件は起きました。

おかんの父親、僕のじいちゃんが包丁を持って近所で暴れまわり警察に保護されました。逮捕じゃなくて保護だったのは、少し痴呆の症状が出ていたのと怪我人がいなかったからだと思います。

その一報を受けた時の状況を今もはっきり覚えてます。
僕の友達が家に遊びに来てる時でした。電話で喋ってるおかんのただならぬ雰囲気に、僕と友達は部屋を出ておかんのとこに行きました。

電話を切ったおかんは、部屋の隅にあった僕の木製バットを持つと、この前祀ったばかりの神棚に向かいました。そして神棚を一瞥すると無表情のままバットで神棚をなぎ倒し、潰し始めました。
それは反抗期の僕であっても有無を言わせぬ空気感でした。

「こんなもんがあるから人間あかんくなるんや、こんなもんがあるから」

と言いながら神棚をバットで壊していくおかんを
僕と友達はただ直立で見ていました。
おかんはゴミ袋にバラバラになった神棚を全部入れると、僕に「捨ててきぃ」と差し出しました。
「祟るなら祟れ」と言いながら。

僕と友達は言われるがままにゴミ袋を受け取ると、ごみ収集場に捨てに生きました。友達はなんとも言えない顔をしながらそのまま帰っていきました。
家に戻るとおかんは何も無かったように晩御飯の準備を始めていました。
その後の事はあまり覚えていません。ただ正月の親族の集まりなどにおかんが行くことはなくなりました。

あれから随分経ちました、おとんはまだたまに5千円の幸せになる水なんかを買ってたりしてました。おかんはぼやいてますが、5千円で幸せになれるのなら幸せか、などと言いながらも仲良く暮らしてます。

神様がいるのかいないのかは分からないです。
宗教が悪いものともあまり思ってません。
でも僕にはあの神棚をバットでなぎ倒していったおかんの姿に人間の強さと悲しさを見ました。

「お前に振り回されるのはもう沢山だ」

おかんが神棚をなぎ倒しながら言ってた言葉は、実はすんごい言葉だった気がします。


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