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感じる精神そのものになる

論理的思考をそのまま書くことは、いかにも考えているような感じがする。数学のように、論理だけで記述される世界では考える精神そのものが確かにある。そうして取り出された精神は、無駄がなく正確に駆動する。それが美しくもある。

そのようにして、考えることそのものを取り出すことができるのならば、「感じること」そのものを、どこからか取り出すことはできないだろうか。

私たちは、肉体の中に思考と感情を備えているのだ。とすれば、文体の中に思考のみならず感情を宿らせることも可能だろう。文字という細胞によって、言葉という器官によって、作りあげられる文章によって。

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生物学的なモチーフをした文章が私の中にある。文章が何かを感じ取るためには、常に柔らかく動いている必要がある。そうであるから、書くことは建築物のように不動の構造物を作ることではない。

基本的な言葉で語ろう。それらはむしろ揺れ動く。基本的であるからこそ、その時々の当たり前によって柔軟に意味を変える。文章も時間とともに意味を変えるだろう。時間によって変化するためには、時間を乗り越えるだけのしなやかさが必要だ。古くなる言葉は使えない。むしろ古くからある言葉を使う。

考えることと感じることは違うのか?それらは似ていると同時に、似ていない。

普遍的に考えるように、普遍的に感じてみることはできないだろうか。誰が考えても同じように、論理によって規格化されたルートが数学のような体系の中を走っている。それと似たように、文体という体が感じることをそれぞれの体の中に共鳴させることはできないだろうか。

コンセプトは同じだが、原理は全く違う。論理は、一つの基準のもとに普遍を作り上げる。絶対的なルールがあるからこそ、その通りに考えると同じ場所にたどり着く。ルール通りに考えることが原理である。

では、感じることの原理は何か。それは感じることそのものにある。何かを見て感じること。それだけで、「感じた」という事実を作り出すことができる。ただ、自分の感覚のもとに、今ここにある感じたものの質感をもとに感じれば良い。そこに論理に求められるような、正しさやどこまでも続くレールのような一本のルートも必要ない。感じることに、正解はない。感じたことが正解である。そして、どこまでも線のように伸びていくよりかは、閃光のようにぱっと一瞬で開いて消える。

ルールや基準を定めなければ、どこまでも変わり続けることができる。書くたびに変わり、読むたびに変わるだろう。

感じる精神そのものになる。日常の感覚を忘れ、肉体を忘れてただ感じる。感じる動きそのものを取り出す。

書いている間は、私は言葉になって、読んでいる間はあなたは、言葉になる。自由に感じられるように書かなくてはならない。自由に感じられるように、読まなくてはならない。その自由さを言葉は受け止めなくてはならない。

それでなおかつ、感じる「私」を感じ取らなくてはならない。

おそらく、ただ書いているだけでは実現不可能であろう。書き続けなくてはならない。時間の中で揺らぐこと、変わり続けることができる存在でなくてはならない。しかし、踊っている体は一つである。ある文章の中では現れないものが、ある文章では現れる。一つの文章の中では、文体は完結しない。書き続けることで、文体が浮かび上がってくる。

文体が文章を作り出す。同時に、文章が文体を作り出す。

感じる精神そのものになる。それは、感じる存在を見つけるための冒険である。いや、もうそれはそこにあるのかもしれない。それを確かめるために「私」は書いているのかもしれない。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!