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【Venus of TOKYO】Twitterのホームタブに寄せて、プラットフォームとVenus of TOKYO【アーカイブ】

※ふせったーに投稿した過去記事を、アーカイブとしてnoteに投稿しています。

先日人と話していて、かつて二次創作は個人が構築したホームページにそれぞれ載せられていたけれど、今はTwitterとpixivに集約されてしまった、結果、「推しジャンルの神」が生まれた、という話を聞いた。

個人のホームページに載せられた創作物は、載せ方も見せ方も様々、見る人はリンク集を辿るなどしてホームページを訪問して見に行くしかなかった。
感想はBBS(電子掲示板)に書き込むしかない。それもホームページの主が設置していればの話。基本的に創り手と読み手の一対一の関係があった。
個々の作品に対する「いいね」もなく、数値化されているのはホームページ自体のカウンターのみ。
創り手は創りたいから創り、読み手は読みたいから訪ねていって読んだ。
読み手は創作物と、創り手と一対一に対峙した。評価軸もそれだけで、ジャンルの住人全体に可視化されるような一元的な評価軸はなかったから、「神」は生まれ得なかった。フラットだった。

今や、創作物とその流通、作品外のやりとり、評価に至るまで、大部分がTwitterとpixiv(あるいはその他SNS)に集約された。自分でホームページを構築してそこに創作物をアップロードするやり方はごく一部のみしかとらない。

つまり、「プラットフォーム化」された。

作品や作品の一部が切り取られて世界の果てまで運ばれ、フォロワーやいいね数が一目瞭然可視化された。
結果「インフルエンサー」や、二次創作について言えば「推しジャンルの神」が生まれた。

だがこの場合の「神」とは、実はプラットフォームそのものだ。神とはTwitterであり、神とはpixivなのではないか、という話をその人とした。

作品自体の掲載、流通から評価まで、それはすなわち二次創作の総体、文化そのものだ。それがすべてプラットフォームに握られているとすれば、たしかに神とはプラットフォームである。
神=プラットフォームが、戒律を打ち立てる。数値化される評価はもちろん、テキストの文字数、画像サイズ、フォーマット、掲載方法、受け手の目に触れるその触れ方、なんならアカウント自体の生殺与奪、などなど。制限は大小様々、十戒、ではとても効かない。
創り手も受け手も、意識無意識に、創作物や振る舞いをこの戒律に「アジャスト」していく。
なぜならば、神が見ているから。神に叛けば生き残れない。評価されない。いいねもリツイートもされないのに創り続ける意味はあるのか。

と、この時点で創作意欲よりもプラットフォームの設定した評価が先行してしまう契機が潜んでいることがわかる(もちろん実際にそういう人が多いと言っているわけではなく、契機がある、ということ。ただ二次創作歴の長いその人が言うには、そうして病んでいく人を多く見るようになったらしい)。


自分は二次創作というものに縁がなく(すごい世界だなあ、と半ば称賛半ば羨望の眼差しで見ている)、「ジャンルの神」と言われてもピンと来なかったのだけれど、話を聞いてなるほどと思った。
プラットフォームの掌にすべてが握られていき、その戒律にアジャストせざるを得ない、という構図はそういえば自分の周りでもいろんな所で見るなあ、と思い当たった。

ホットペッパーに載せないと客が来ない美容室、食べログで低評価がついて経営が厳しい飲食店、ブランド化された商業出版に評価ツールまでを握られているジャーナル業界、Amazonに駆逐される中小書店。
余談だがホットペッパーに月々支払う料金はクソほど高い、そして支払う料金によって上の方に表示されるかどうかも変わってくる地獄仕様だ、と知り合いの美容室経営者の女性が嘆いていた。

なんとなく、プラットフォーム化って便利で合理的で良いものだ、プラットフォームいいぞもっとやれ、と思っていたけれども、いやそんなバラ色のものではないんだな、とそのとき初めて思った。

ということを、今回のiOSTwitterアプリのホームタブ機能を見て思い出した。
他人のいいねが表示される、自分のいいねが他人に見える。
人によって良いことも悪いこともあるだろうから一概には言えないけれども(自分は邪魔だ、こんな所うちのホームじゃない!と思っている)、きっといいねをするときちょっとでも気にしてしまう。「神の目」が内在化する。「お天道様が見てるよ」というやつ。
だからTwitterというプラットフォームが神であることには変わりがないのだなあ。
言ってしまえば、資本主義とか民主主義、そういうものも現代社会のプラットフォームなんだよなあ。たしかに神だなあ(遠い眼)。。


とここまでが前置きで、やっぱりVoTはDAZZLEはすごい、ということを書きたかった。

VoT、プラットフォームから逸脱している。

何も知らなかった初回こそローチケでチケットを取ったけれど、帰り道に衝撃のままELZZAD有料会員に没入してからは毎回あの公式サイトでチケットを買っている。プレミアムチケットや価格設定のこともあり、必ずローチケよりも先に完売する。

ハコを一から作り上げている。幕と舞台というプラットフォームがない。「一番よく見える角度」がない。死角がない。すべてがフラット。

戒律は自ら設定している。逆に言えば自ら設定した戒律以外に外部からほぼ制約を受けない。VOIDマークの付いている物に触ってはいけないが、それは逆に付いていない物には触って良いということで、「普通こんなもの触っちゃダメだよな…」と「普通」「常識」に縛られなくて良い。

情報が少ない。キャストのスケジュールは一部しかまとめられていないし、後付けでも出ない。出し方や出すか出さないか、各キャストに任せられている。最初こそ戸惑ったものの、今ではどこか心地良い。スケジュールが公開されていないキャストがいると、今日は誰だろう、というワクワクもある。「スケジュールは出すもの」という前提自体が業界のプラットフォームの一つかもしれない。

もちろん公式やキャスト、そしてオンラインではSNSというプラットフォームが使われているが、あくまで既存の便利なものに乗っかって「体良く利用している」という感じがする。特にオンラインのAI投票。
Twitterがなければ別のものを生み出して使っただろう。

特定の視点で切り取られることがないから、見た人の数だけ解釈があり、見た人の数だけ感じ方がある。考察は捗るがそれはあくまでその人だけのものであって、絶対に一般化できない。
たとえば「ファスト映画」のようなプラットフォームには乗りえないし、レビューサイトに載せたって混迷を極めるだけだろう。
ジャンル分けもできない。DAZZLEの題目が端的に表している通り、プラットフォームが設定する「ジャンル」には属し得ない(すべてに属し属さない)。

「悲しい」「楽しい」「シリアス」みたいな尺度で星を付けて評価することもできない。
大体にして、感情にもプラットフォーム化ってあると思う。「泣ける」と言われて見に行って明らかに泣かせにきているシーンで周りの観客と一緒に泣く、というのは、否定はしないがある程度感情がプラットフォーム化されていると思う。
VoTでは一部を除き「隣の観客」なんていないし、それこそ誰もいない部屋で一人思いに浸ってさめざめと泣いていたっていいのだ。感情が自由。


プラットフォームという現代社会の神に叛き、あるいはいつでも脱けられる重心で共にワルツを踊りながら、今後もただ犀の角のごとく独り歩んでいってほしい。だいぶ遅くはなったけれども、ファンではなくサポーターとして共に着いていけるならこんなに幸せなことはないし、それがプラットフォーム化する社会に呑み込まれない者達の静かな「革命」になるのかもしれない。

(2022年3月11日投稿 元記事@ふせったー

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