金城哲夫についての原稿

古いファイルの中から、掲載する価値のあるものをぼちぼち見つけていこうと思っています。

「ウルトラシリーズ」の脚本家である金城さん、佐々木守さん、上原正三さんなどについては、特撮メディアのライターを卒業しても書かせていただいている、私にとっては多分一生のテーマで、今度発売される実相寺昭雄監督についての本でも、監督そっちのけで脚本について書かせていただいています。

さてこの原稿ですが、どこに掲載されたものか全く記憶にありません。当時私は金城哲夫に関する伝記漫画を集英社で進めており、そのために多数の関係者に取材をさせていただいていました。しかし版権問題から漫画化は頓挫して、その取材内容をこうして散発的に原稿に活かしていた……のだと思います。

終盤の書きようだと「セブン」のLDボックスにでも書いたんでしょぅか。最初の「セブン」の単品LDでは、12話と上原脚本について書かせていただいたのは記憶にあるんですが、この原稿についてはすっかり忘れていました。もしご存知の方があれば教えてください(ヒドイ)。

恐らく二十年ほど前の原稿ですので、いまわかる範囲での間違いは訂正し、一部文章を改訂しました。なんとなく単価をあげています。

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初期円谷プロが制作した「ウルトラQ」「ウルトラマン」「怪奇大作戦」などの作品が同時代の他作品と比べて、特に完成度が高く現在の鑑賞にも耐えることは、皆さんなら先刻ご承知だろう。
当時円谷プロに文芸部長として在籍していた金城哲夫は、各作品のメインライターを勤めるかたわら、様々な方面から作品に関わった。彼の力が当時の円谷作品の充実に一役かったことはまず間違いないことといえるだろう。近年再評価の機運が高まる金城哲夫について、ここで改めて振り返ってみよう。

金城は昭和十三年七月、東京・芝に生れた。両親は沖縄の人間であったがこの当時東京の大学に在学しており、そこで長男である哲夫を設けたのである。その後すぐに両親は沖縄に戻っているので、金城は実質的には沖縄生れ、沖縄育ちといっていい。
中学卒業後昭和二十九年、金城は東京の玉川学園高等部に入学した。「全人教育」を旨とし全寮制(当時)だった玉川学園には、様々な地方から生徒が集まっていたがその中でもまだ渡航にはパスポートを必要とした沖縄からの生徒は珍しかったという。
長身で快活、目立つ顔立ちの金城は学内でも注目される存在であり生徒に人気があり、また上原輝男教諭(現-執筆当時-玉川大学教授)には殊に可愛がられたという。金城が脚本家の道を歩むキッカケとなったのも上原教諭の導きによる。教諭の教え子で、金城より三年先輩に円谷皐氏(現円谷プロダクション社長)がいた。円谷英二氏の次男である。上原教諭はその関係から円谷氏から劇場映画の脚本の相談を受けることなど多々あり、金城が大学卒業をひかえ脚本家の志望を明らかにしたとき、円谷英二氏を紹介したのである。それは金城の希望でもあった。学生時代金城は格別に特撮映画への興味を示したことはなかったと言われるが、もし脚本を書くのなら「世界のツブラヤ」の元でという意識があったのだろう。それほど、円谷英二の名は当時世間に知られていたのだ。
円谷氏の自宅に通いはじめた金城は、英二氏にはもちろんのことながら、長男の一氏に特に気に入られたという。その様はまるで本当の兄弟のようで、嫉妬をおぼえるほどの仲の良さだったと、皐氏が後に語っている。
円谷一氏(昭和四十八年三月没)は、大学卒業後TBSに入社、最初は演出部、後に映画部で主にフィルムドラマの演出に携わった。有名な日劇中継事件で干されていた実相寺昭雄を現場復帰させたり、また飯島敏宏、樋口祐三、中川晴之介などのTBSで演出をしていたメンバーを円谷プロに招いたのも一氏の尽力によるものだ。。
皐氏もフジテレビに入社。クレージーキャッツの「大人のまんが」など主にスタジオのディレクターとして才気をほとばしらせた。長男と次男を違うテレビ局に入社させた英二氏は、既にその頃からテレビ時代の到来を確信しており、息子にテレビのことを学ばせる意図があった。皐氏が父の企画にそって自ら中心に進めた「マイティジャック」では友人の故五社英雄監督(当時フジテレビ)の紹介で、「三匹の侍」を書いていた脚本家を起用した。「MJ」がそれまでの円谷作品に比べ、脚本メンバーに金城などの影が薄いのはそういう理由による。ディレクターとしては厳しい性格だったということでその頃『せいじょうき』=『成城の鬼』なる仇名を植木等氏にいただいているとか。

一方の一氏は主にフィルムドラマ、それも当時としては珍しいロケーションを多用したドラマを多く生み出した。芸術祭で大賞をとり海外でも評価を得た「煙の王様」(この作品の海外用フィルムは現存している、ビデオ化切望!)、実験作「未完成交響楽」など数多くの代表作がある。
あるとき金城哲夫を円谷一氏は抜擢した。自分の担当していた「純愛シリーズ」(一話完結の『日曜劇場』形式のシリーズ)の一本「絆」で金城をデビューさせたのである。原案者は別にいたとはいえ、金城は若干二十四才、昭和三十七年のことであった。
金城はこの期待に応え、「絆」は傑作となった。内容は精神薄弱児と教師の愛情を描いたもので、金城は冗談の意味もあってか「教育学科卒業生ということが役立ちました」と実家に書き送っている。もちろん現在この作品を見ることは適わないが、作品の完成度について傍証をあげることは出来る。昭和三十七年の「映画評論」誌に「円谷一のテレビ的ファンタジー」という一文がある。岡田晋氏による、若いテレビディレクターを扱った連載である。岡田氏の求めに応じて円谷一氏があげた自らの代表作が「仕事の歌」「未完成交響楽」「絆」である(未だ「煙の王様」ゃ「スパイ―平行線の世界―」は撮られていない)。岡田氏も中では「絆」を「短編劇映画を見ているよう」と絶賛し、才能を評価している。
華々しいデビューを飾った金城は以後「近鉄金曜劇場」「月曜日の男」「泣いてたまるか」などを担当する一方、愈々活動を開始した円谷特技プロダクションのテレビ第一回作品の企画の中心にいた。
金城の才能を導いたのが円谷一氏であるならば、彼に「映画」の基本を教えたのが関沢新一氏(平成四年十二月没)であった。
アニメーターの経験もあり、もともとアニメーション映画や、特撮映画に強く惹かれていた関沢氏(唯一の監督作品が新東宝「空飛ぶ円盤恐怖の襲撃」)は「大怪獣バラン」以降、大半の東宝特撮映画を、木村武(馬淵薫)氏と二人で分担するように書き続けた。木村氏の脚本が、やはり前述の本多監督を刺激するドラマ志向の強いものであったのに対して、関沢氏の脚本は映像化を前提に魅力的なシーンと物語を大胆に提出するものであり、その脚本は円谷英二氏にとって最も信頼に足るものだった。
英二氏は、金城哲夫を円谷プロが手掛けるテレビ映画の中心ライターとするべく、自分たちが指導するだけでなく関沢氏に託した。関沢氏の自宅は渋谷にあり、偶然にもその隣邸(現インドネシア大使館)は金城の下宿先でもあった。と言うか金城が後に結婚する裕子さんの東京の御宅であったのだ。そんな縁も手伝い、金城は足繁く関沢宅に通ったという。
関沢氏は金城に具体的な何かを教えたつもりはない、と生前語っていた。時にはプロットを読んで指導することもあったが、殆どは雑談であった、と。しかしその雑談のなかから金城は「映画」というものを学んでいった。
関沢氏の脚本の魅力は一にエンターティメント。映画とは面白ければいいのだという大胆な提言。第二には省略、観客を飽きさせないための工夫。岡本喜八監督との共作「独立愚連隊西へ」などはまさにその省略が効を奏している典型だ。余談ながら「ウルトラ警備隊西へ」のタイトルはこの映画から採られたものではないだろうか?
そして第三に「絵が浮かぶ」こと。金城は関沢氏の脚本を読んで「先生の脚本は(他の人と違い)具体的な絵が浮かぶ」と誉めたという。関沢氏は絵心もあり「最初に絵が浮かんで書く」タイプだったから、これはむしろ当然だった。
現在、金城の脚本が評価される際「読んだだけで絵が浮かぶ」「エンターティメントに徹している」「骨太だ」と言われるが、これらの基礎は関沢宅で学ばれたものといっていい。もちろん学んだからといってそれが実行できるものではなく、だからこそ金城は天才であったのだ。

円谷プロダクションで精力的に企画に乗り出した金城は当初フジテレビで「WOO」という雲状のヒーローものを企画(平成になってNHKで作られた「生物彗星WOO」のアイデア元)するが、見送られた、やがてTBSで「UNBALANCE」(後の「ウルトラQ」)がスタートする。ここから金城の黄金期が始まる。

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