短編小説【シティーボーイ街道】

 5月10日。暖かくなりはじめ、過ごしやすくなってきた。寝ぼけた目を覚ますために、洗面台に移動する。まだ毛先が綺麗な歯ブラシで歯を磨く。この一連の動作が体になじんでいることを男は感じていた。
 4月から新天地に移り、一人暮らしをはじめた。何もなかった洗面台にはコップと髭剃りが置かれ、棚の中にはティッシュと代えの洗剤が入っている。
 必要なものも一通り揃い、周りには挨拶をしたら返してくれる人もちらほらいる。男はこの町の住民になれたと安心した。

 今日は久しぶりに予定のない休日である。そこで、男はこの日長年やりたいと思っていた、“あること”を遂に実行することに決めた。
 男はなるべく自然に見えるように髪形をセットし、店に並んだマネキンと同じ服装をした。
 普段は寝癖を無理やり直して、会社に行くだけの生活をしていた男は、それだけで普段の自分と違う新しい自分になれた気がする。
 前もって本屋で見つけておいた文芸誌と水筒を、新品のクラッチバッグに入れ、普段駆け足で降りている階段を初めて一段も飛ばさずに降りた。

 使い慣れたと思っていた道も今日はいつもと違う気がする。男は移動時間を人生の無駄と考えている。そのため、どの道が一番早く駅までたどりつけるかと、ばかり考えていた。
 信号が長くてむかつく交差点の手前にはおもむきのありそうな定食屋さん、川を渡る橋の縁には川沿いを歩ける遊歩道、帰りに弁当を買うコンビニの近くには子供たちが遊んでいる公園。どれも男の興味を引いた。
 しかし、男には今日やることがある。
 立ち寄りたい気持ちを男は奥歯をぐぐぐっと噛んで我慢した。
 しかし、駅に近づき人が増えるにつれ、男は恥ずかしくなってきた。普段は仕事に行くという目的があったため、堂々と歩けていた。それが今日は普段しないおめかしをしている。
 あの人マネキンと同じ格好してるなんて言われた日には二度とこの駅を使えない。
 ああ、周りの人たちが自分を見ているような気がする。男は慌ててコンビニに逃げ込んだ。見慣れた弁当ゾーンに行き、気持ちを落ち着かせる。
「こんなんで、大丈夫か。」
 男の独り言はコンビニの店内BGMでかき消された。

 男が使う駅のホームからはスターバックスコーヒーが見える。世間ではスタバと略すらしい。なので、スタバと呼ぶことにする。男にはスタバが理解できない。
 たかがコーヒーをあんな高い値段で売りつけるなんてどうかしている。
 なにが、トールアイスライトアイスエクストラミルクラテだ。お前らがやっていることは吉野家で牛丼並頭の大盛つゆだくネギ多めと、なにも変わらないじゃないか。
 それなのに、スタバの方がオシャレのような風潮が気に食わない。のどが渇くなら水筒を持ち歩け、水道水と粉末緑茶を入れれば簡単にできるし、しかも安い。
 俺たちの方がかしこい。普段から男は仲間内で持論を展開して、スタバをけなしていた。しかし、我々は来るものを拒まない。
 一度ぐらい飲みに行ってやってもいいだろう。決して飲みに行きたいわけではない。飲んだうえで、判断したいだけだ。我々は心が広いのだ。

 男は駅からスタバを見るたびに、いつか行ってやると思っていた。スタバの近くを通るたびに店内を覗いていた。パソコンをいじる人、読書する人、談笑する女子高生がいた。
 男にはパソコンはハードルが高いと感じた。男は背伸びしないのだ。
 男は本屋に行き、スタバで読む本を探した。これは狙いすぎている、ありきたりすぎるなど、男は今までで一番真剣に本を探した。
 そこで、普段手に取らない4月の文芸誌を買うことにした。

 スタバに行く用の服も買った。店員さんに話しかけるのが怖かったが、ネットに書いてあったマネキン買いなるものをした。
 店員さんに話しかけられ、買う気もないバッグを買う羽目になった。なぜバッグなのに持つ場所がないのか分からなかったが、店員さんがお似合いですと言ってくれたから、それでいいのだ。店員さんはかわいかった。
 会計に移った時、想像以上の値段だった。しかし、貧乏だと思われたくない一心で、家具用のお金で支払った。
 店員さんはお釣りを渡すときに手を下に添えてくれるタイプの人だった。添えられた手に男の手が当たってしまった。男は動揺のあまり、小銭を落としてしまった。店員さんは嫌な顔一つしないで小銭を拾うのを手伝った。男は恋も落としてしまった。
 この服屋が原因で、家具を揃えるのが数週遅れたのは、また別の話である。
 

 時は戻り、スタバ前。男は何とかスタバにたどり着くことが出来た。店に続く長蛇の列に並びながら、注文する予定の商品を脳内で繰り返していた。
 男は家で何度も練習したため、注文できる自信があった。
 そして、その時は来た。
 男はトールアイスライトアイスエクストラミルクラテを頼んだ。しかし、男は本番に弱かった。何度言っても注文は通らず、メニュー表にあるアイスミルクラテを指さすことにより事なきを得た。
 出鼻をくじかれる形となったが、とりあえず席につくことにした。たまたま空いていた道路に面したカウンター席に座った。気を取り直して、男はおもむろに文芸誌を取り出し、読むことにした。
 しかし、何分経っても同じ行から進んでいかない。何度も何度も同じ行を読んでしまう。なおかつ、内容も頭に入らない。
 男はシティーボーイ街道を歩いていることに興奮してしまい、頭が真っ白になっていたのだ。通りからの視線に、動物園の動物になったような錯覚を受け、シティーボーイではないのを見透かされているような気がした。
 隣でマックブックをいじっている女性の、こんな厳しい状況下でも作業を辞めない姿に憧れを感じた。
 これがキャリアウーマンか。よくわからないことを考えながら男は文芸誌をただ眺めていた。
 気づけば飲み物は無くなっており、どんな味がしたのか思い出せない。
 今日のところはこの程度で許してやろうと男は考え、帰ることにした。

 家に帰ってもまだ昼の時間だった。
昨日作っておいたカレーを食べながら、シティーボーイ街道への一歩を踏み出した実感をかみしめた。カレーのように柔らかかった。
 今度はどんな服を着ていこう、服屋の店員さんのことを考えながらへこたれない男であった。

サポートされた暁には、しっかりと喜ぼうと思います。 普段飲む牛乳のランクを一つ上げます