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【ネタバレあり】甘き死よ、来るなかれ

本記事は、『‎シン・エヴァンゲリオン劇場版』(以下、『シン・エヴァ』)の感想であり、この感情をアウトプットするのに必要だったので関連作を含めてネタバレしてます。
ネタバレされたくないのにここにたどり着いた人は、そっと画面を閉じて見なかったことにしてください。

僕とエヴァンゲリオンの25年(仮)


先日、『シン・エヴァ』を観てきた。
もしもその直前に「エヴァが好きか」と問われたら、微妙な返事しかできなかったに違いない。
新劇場版(以下、新劇)の『序』公開時(2007年)は「結構好き」と答えただろうに。

30代半ばの私の世代はエヴァブームの余波を浴びており、「まあ、だいたいのオタクは知ってるよね」という雰囲気が少し漂っていた。
私は、1995年放送時は視聴していなかった。当時は小学校半ばだったはずだが、エヴァンゲリオンが放送していたかどうか、まったく覚えていない。それよりも前に制作された『ナディア』も兄に付き合って見ていのは覚えているが、最初のほうしか思い出せない。
1997年に劇場版(以下、旧劇)が公開され、それに合わせて深夜に一挙放送が行われた。兄が録画していたそれを見たのが、私とエヴァの出会いだ。(これが小学校高学年、今思えばちょっと早かったかもしれない)
エヴァンゲリオンとの関係は約23年ほどになるわけだが、誤差の範囲なので、以降は切りのいい「25年」を使う。
エヴァンゲリオンは当時の私にとっては難解で、中学生になっても高校に上がっても、理解しきれた自信はなかった。
それでも見返すうちに、小学生のころはわからなかった部分に気がつけたし、こうして書いてみると当時「最後、あれでよかったのかね~」と言いつつも、なんだかんだ好きだったのだろうと思う。


2007年の新劇『序』は、私にとって理想的な「やり直し」だった。元のアニメはこの時点でもかなり古い作品で(デジタルに移行したしね)、綺麗な映像で新しく描かれるエヴァンゲリオンの世界は、美しかった。
『序』のクライマックスである、シンジとレイの2人で成し遂げたヤシマ作戦は、原作アニメの全26話のうちの6話目にあたる。まだアスカすら登場していない、初期の初期にもかかわらず、非常に美しい序盤の盛り上がり部分なのだ。もう、私としてはほぼ完璧だった。
宇多田ヒカル氏の『Beautiful World』は、今でも大好き。

2009年の新劇『破』も、いろいろと驚きはあったけれども楽しく見ていたかと思う。
アスカが「惣流」ではなく「式波」になったのは、少し寂しかった。しかも、加治さんとの関係も変わってしまったし。
劇中にBGMとして使われていたクラシックは、テレビシリーズのときは新鮮に思ったものの(小学生当時そういう発想がなかったため)、馴染めた。なのに『破』の挿入された歌謡曲は、マリが口ずさむもの以外は個人的にあまりしっくりこなかった。
そして、そのマリ。演じる坂本真綾さんは大好きで、なんならライブにも行ったことあるくらいだが、まさかこんな異物的なキャラクターが出されるとは予想外だった。ただ、マリという人物そのものはかなり好感触だった。
私は『序』まで、「まあ、テレビと劇場版(旧劇)でいろいろぐちゃぐちゃしちゃってたし、改めて作り直すのはいいと思う」くらいの気持ちでいた。そして『破』を観て、「あ、思った以上に違うぞ!」と情緒が変化していくのを感じた。
「序破急」は舞楽や能楽の構成形式と言われるが、シナリオの世界でも「三幕形式」の同義語として扱われる。「起承転結」と同じく、ひとつの物語における構成パターンと思ってほしい。
導入部にあたる『序』はおおよそテレビシリーズを踏襲していた。対して『破』は、文字どおり予定調和の枠を破ってくれた。
情報を集めていくと、当初は「『破』というほどのものではない」というくらいには総集編だったという話がある。本作で新たに登場するマリも、扱いは小さかったらしい。
しかし、シナリオが書き直され、マリの描写も変更となり、『破』はそれまで私が期待していた「新しいエヴァンゲリオン」を大きく壊した。
馴染み切れない部分はあれど、私は『破』を観終わった瞬間、わくわくしていた覚えがある。
テレビ版と旧劇版を知っていると予想できる流れから、どんどん切り離されていく。まったく新しい世界に連れていかれる。
未知への期待と少しの恐怖が、そこにはあった、気がする。

そして2012年公開の『急』ならぬ『Q』。
ここで白状すると、劇場で見たかどうかすら、実のところあまり覚えていない。
エヴァへの熱意を失っていたわけではないが、映画館に行くほど何かのコンテンツを楽しむ余裕がなくなっていた時期だったように思う。私はそもそも、映画館で映画を鑑賞する習慣を身につけたのが最近のことで、このときはまだシナリオライターでもなかった。
ただ、『Q』の世界があまりにもぐっと進みすぎてしまい、インターバルの3年のうちにほんの少しのつもりで途中下車した自分は乗り遅れてしまったような気分になっていたのも確かだった。
まあ、まさかそこから2021年になるまで完結編を待つとは思わなかったけど。
『Q』に、テレビと旧劇の面影はあまりない。劇中内でシンジも知らない間に長い時間が流れ、登場人物のほとんどが年齢を重ねていた。
ミサトたちはネルフではなくなり、新しい組織に新しい仲間と一緒にいる。
どの世界戦でもだいたい散々な目に遭うアスカは健在なものの、『破』で「異物」としてやってきたマリとなんやかんや仲良くなっている。
トウジの妹であるサクラは例外として、シンジと視聴者にとって「知らない人」たちである新キャラクターたちとは距離がある。
『破』で、彼自身の力でテレビと旧劇の世界を打ち破ろうとしていたように見えたシンジは完全に迷惑な存在となり果てていた。
いわゆる「Not for me」をここで感じていたのかもしれない。私の期待していた、新しい世界ではなかったのだ。
しかも、序破急で終わると思いきや、なんだか続きがあるっぽい。
この世界で、まだ続くのか。ここで私は、期待しすぎないことにしてしまったのだと思う。
ただ、渚カヲルに対しては特別思い入れもなかったのだが、彼とのピアノの連弾シーンは本当に美しく、『Q』で一番好きな場面かもしれない。

今になって思えば、私は終わり方になんやかんや言いながら、テレビと旧劇版が自分で思っていたよりもずっと好きだったのだろう。
特に、旧劇の挿入歌『甘き死よ、来たれ』は、当時から自覚があるほど、ものすごく好きだったのだ。きっと、エヴァに対する私の感情はここに集結する。
どこか明るい曲調なのに、世界の終わり、喪失、絶望、無へ還っていくことを歌う。
また、画面ではビッグ綾波が登場し、量産型綾波が時には幻覚を見せながら次々に人々をパシャっとしていく。
この曲調の齟齬を、私はとても愛していたのだと思う。ひたすら苦しみを与えるタイプの絶望物語でなく、自然と静かに、光が差し込んでいくように物語が終わっていく。それが私にとっての美しさだったのだ。
ゆえにアスカとシンジが2人残り、首絞めシーンからの「気持ち悪い」という終わり方すら、私は「あれでよかったのかな~」と口では言いつつ、愛していたのだったと思う。多分、ずっと「あんな終わり方だったけどね~」と言っていたかった。
だからこそ、自分の愛した世界とは違う方向に舵をきった『Q』に戸惑ってしまったのではないか。

それから約9年後の2021年。私を取り巻く環境はかなり変化していた。
一番の変化は仕事で、数度転職した末に私は会社員をやめ、フリーランスのシナリオライター業を営みはじめて数年目になっていた。
その間にいろいろなコンテンツが生まれ、仕事の関係もあり、私はほどほどに方々の新しい供給を楽しんでいた。
庵野監督はというと、なぜかジブリで主演声優をつとめたり、『シン・ゴジラ』を2016年に公開したり。
ちなみにこの『シン・ゴジラ』がすごく面白くて、監督もかなり楽しんで制作しているように感じた。ここらへんでようやく気づいたのは、私は庵野監督自身の趣味にあまり関心を持っていなかったことだ。
エヴァンゲリオンのあとに制作されたアニメ『彼氏彼女の事情』はもちろん見たし、その後関わっている作品もそこそこ触れていたが、「ああ、こういう特撮が好きなんだ」とようやくこの段階になってストンと入ってきた。
この時間があってよかったと、『シン・エヴァンゲリオン』を観終えた今になってはよく思う。

彼から遠のいた「甘き死」が私に訪れた


そういうわけで、『シン・エヴァ』には何も期待せず、「長い待ち時間に区切りをつけにいく」という心境で映画館に足を踏み入れた。
SNSでは、この映画と公開開始と同時期に衝撃のクライマックスを迎えた漫画『進撃の巨人』はネタバレがガンガン流れてくるのに、『シン・エヴァ』に関しては何も情報が流れてこなかった。それがある意味心の準備となった。

結論から言えば、びっくりするくらい、『序』開始から何度か「本当にちゃんと終わるのかな」と心配したのが嘘のように、綺麗に終わった。
冒頭の村に関する部分は、近未来なのに昭和感漂うテレビ版のままな気がしたし、成長した同級生たちの姿も嬉しかった。
プロ波の純粋さも、誇張された感はあったものの、かわいいと思った。
今までひどい目に遭わされ続けたアスカには希望がほのめかされた。
私が何気に好きだった冬月先生も、途中でとんでもなくかっこいい、けれどお約束みたいな演出で登場してくれる。
そして、ミサトさんがかっこいい女性だった。特にラストのほうで昔のような姿になって突き進む姿は、ぐっときた。
ゲンドウに関しては、旧劇のほうが自分の認識するゲンドウ像に合っていると思うものの、救済があってよかったのではないかと思う。
彼が自分のことをあそこまで語るとは思っていなかったので、そこは驚いた。すごく綺麗なゲンドウだった。まるでダメな男(夫)、マダオには違いないとしても。でも、この男……というよりこの夫婦の存在がめちゃくちゃ迷惑なのは一貫していた。

そしてマリ。最後には驚いた。
25年前のエヴァファンは、まさかこんな展開があるとは思わなかっただろう。
レイ派、アスカ派で争っていたあの日々はなんだったのか。
でも、テレビ放送開始から25年経ったからこその結末としては、ふさわしいのかもしれない。
いろいろなコンテンツに触れていると、コンテンツの平均寿命というのは思った以上に短いのだと感じる。長く続いているコンテンツはたいてい、世代交代に成功したり、何らかの変化を遂げたりしている。
同じ作り手が同じユーザーだけを対象に作り続けるというのは、ある意味では不健全なのかもしれない。
単なる元の作品のリメイクではない何かに変ずるには、おそらく「異物」であったマリこそが必要だったのだ。レイでもアスカでもなく、いわばぽっと出の彼女が。
『シン・エヴァ』の序盤、大人になった同級生と比較すると、シンジは14年前の少年のまま時間に置いてけぼりにされていることが明確に描かれている。
見かけはそのままのアスカも、かつての彼女とは違う存在となったレイも、各々のペースでの成長が描かれたのに、彼だけ時間が止まっていた。
それは、ずっと旧作品に心が置き去りになったままの観客に重なった。
シンジは、同世代のキャラクターたちからちょっと遅れて、少年期を脱した。最後の瞬間、私は「この25年間にさようなら」というメッセージを幻視した。
きっとシンジはこの結末後、幸せに生きていける。『甘き死よ、来たれ』にあった安らかな絶望はきっと訪れない。来なくていい。
もしくは、そこそこ穏やかな老後を過ごしたあとに苦しまずに死ぬくらいの甘さなら、来てもいいかな。
あの閉じられて何もかもが無くなった世界では得られない希望が感じられたし、彼にとってはこっちのほうがよいのだろう。

私は過去に、読み終えるまでずいぶんと長い時間がかかった本がある。読んでいる途中でしおりを失くしたり、本自体が部屋や棚の奥に潜んでしまったりと、最後まで読む意思はあるのにまったく進まなかったのだ。
その本を読み終えて閉じたときと、『シン・エヴァ』の鑑賞後の心境はよく似ていた。
新展開がまたあったら、なんだかんだ言ってチェックするかもしれないが、エヴァンゲリオンという作品はこれにておしまい、でいいと思う。
私が過去好きだった物語は打ち破られたけれど、そうしてお別れをするための『シン・エヴァ』なのだと、私は解釈している。監督の真意や心境の変化は知らない。
劇中はともかく、私の胸には旧作品の甘き死が訪れた。
こうしてわりと穏やかな気分でいられるのは、2014年に出た漫画版の最終巻に、マリのエピソードが載っていたのもあるだろう。
私はあの短編がものすごく好きだ。あれを読んでいなければ、『シン・エヴァ』でのマリの印象はまた変わっていたかもしれない。
新劇はあの冬月研究室の部分がちょっと省かれすぎではないかと感じたが、ゲンドウ視点なのでユイのことばっかりな彼らしい描写だと思う。

最後に、脇道にそれるような感想をもう2点。
ビッグ綾波はCGだとすごく怖い。
実は私、「ネオン・ジェネシス」連呼されてもすぐにピンと来ず、時間差で「そういえば『新世紀エヴァンゲリオン(NEON GENESIS EVANGELION)』だったな!」と気づく程度にタイトルを忘れていた。
本当に、長かったな。

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