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【ネタバレあり】歴史が好きなだけのライト審神者が『无伝 夕紅の士 -大坂夏の陣-』も現地で鑑賞した話とか

※无伝と天伝のネタバレがありますので、未鑑賞の方はご注意ください。
※今回は近くの席の、私語が多かったり幕間にマスクを外したりする人たちを目にして、別件を考えながらの鑑賞になったため、いつもと違うテンションです。
※記憶違い、認識違いあったらすみません。記憶はよく失くすタイプです。
※ぽつぽつ舞台や映画の感想を書いていますが、とりあえずここには天伝の感想記事だけ置いておきます。
https://note.com/nishikannnnnnna/n/nacaf78031e27

前置き

まずは舞台刀剣乱舞の上演再開と5周年のお祝いを申し上げます。
私は自由業ゆえに平日公演の選択肢が多く、たまたま1回に絞って選んだのが、5月12日の公演でした。
当初の緊急事態宣言による休演は5月11日まで。
ギリギリのギリで免れていたものの、宣言が出た時点で延長は覚悟していたし、実際に世がそう動いたので半ば諦めていました。そんななか、12日より上演再開となったのは感謝しかありません。

それはまるで、紙飛行機のように

早速天伝の話から、无伝のあらすじとして公開されている範囲も含めて。
前回の冬の陣は、どこぞのゴリラかというくらいのパワーでがんがん私の情緒を揺らしてくるストーリーで。
偉大なる父を持つ息子たちを描き、創作要素の強い真田十勇士をあえて利用しつつ、「諸説へ逃がす」という私がニッコニコになる手法を絡め、真田信繁が歴史に抗うためにまさかの冬の陣での退場という展開に「夏! 早よ夏ー!!」と心の中で絶叫しながら幕を閉じた。(オタク特有の早口)

さて、その夏の陣はといえば、想像以上に真田十勇士が活躍していた。
歴史好きや戦国好きを名乗りつつ、真田ものは守備範囲外なので大まかにしか把握していない身ながら、刀剣乱舞というコンテンツのなかで描かれるとまた新鮮な存在に感じた。
また、秀頼の実母にあたる淀殿ではなく、あえて高台院にスポットを当てているのも嬉しいところ。大坂の陣を扱おうとすると、たいていは淀殿が前面に出がちなので、高台院の起用でif感が高まる。

ただ、私が期待していたのは、夏の陣で秀頼がどう滅びるのか、その様だったのだと終演後に気づいた。
これはおそらく、前も書いたように、私の主となる部分が「歴史をどう描くのか」にあり、その上で刀剣男士たちの戦いを楽しんでいるいう、本来とは逆転した楽しみ方になってしまっているせいではないかと。
でも、でも、やっぱり秀頼と秀忠の二代目同士、しかも岳父・娘婿という関係の絡み、もっと見たいじゃん!
天伝でお父さんがあんなに存在感あったし!(大御所様、幕末ものの今の大河でもなぜか存在感あるよね)
秀忠自身は真田さんといろいろあったし!!(そのせいで現代人にいじられがち)
そういうわけで、ちょっと自分的にかゆいところが残ってしまった気がする。

じゃあ、面白くなかったかと言われたら全然そんなことはなくて。
新たな試みは見応えがあったし、円環の外に抜け出せたはずが歪な螺旋に巻き込まれつつあるストーリーの発展もわくわくした。
だからこそ、今回は「ひと連なりの物語の一欠片」に留まった感がぬぐえない。情緒が乱れまくった天伝に比べると。
まるで、勢いよく飛んでいった紙飛行機が、ふわっと柔らかに着地したような。
単独での面白さよりも、ジョジョに間合いを詰めてくるあの人との決戦へ向かっての布石として描かれた印象になってしまった。

秀頼は結局「間に合った」と言えるのか

秀頼に関しては、天伝で描ききってしまった扱いになるのだろうか。
英雄の息子として生まれながら、自らは何も持たないお飾り。しかも、血のつながりさえ疑わしいなら、存在理由さえ失ってしまう。
そんな彼がアイデンティティを確立したのが天伝だ。
徳川の時代が確立しつつあり、終焉を迎える乱世。
なんの武功も持たぬまま生まれながらに天下人となった彼は、自らの力を示せる最後の大戦に「間に合った」はずだった。

しかし、本来は天伝(冬の陣)で摘み取られるはずのifの芽から伸びていった无伝(夏の陣)は、正史との誤差は修正不可で、見放された世界となった。
そんな地で秀頼の活躍を期待するのは邪道なのかもしれない。真田信繁の刃が、全部断ち切ってしまったのだから。
こう書くと、无伝における彼の描写が薄く見えるかもしれないが、「士」をキーワードに要所要所できちんと見せ場を設けられていた。私が欲張りすぎているだけなのだ。
黄昏、夕暮れ。奪い奪われる命が輝く昼から、静かな夜が訪れるまでの時間。午後のきつい日差しが、ふと穏やかな紅に転じる瞬間。私の期待と本作は、その一瞬で隔たれていた。

とはいえ、思いがけず生まれた秀忠との対話の中で、太平の世を盤石にする義父と自分との違いを思い知るところは、天伝とはまた違った、ほどよいしんどさがよかった。
また、燃える大坂城の中、鏡を使った演出のシーンが恐ろしいくらいに美くて美しくて。
もう1人の「父」に見届けてもらえたなら、彼の物語は幸せな区切りをつけられたのだろう。

ねね様、審議のお時間です

今回のキーパーソン、一路真輝さん演じる高台院(ねね)。見目はもちろん、歌声も美しかった。
劇中でも語られるとおり、彼女は大坂の陣の際は動きを封じられ、豊臣家を語るうえで欠かせない人物でありながら、その滅びが描かれるときは存在感が薄い。
にもかかわらず、彼女は夏の陣を迎えようとする大坂の地に現れた。
「ほらね! 『史実』はあくまでも記録だからね!」と鼻息荒くなりそうな自分を必死に抑える。

「刀剣乱舞の面白さのひとつは、あちらこちらからにょきにょき生えてくる歴史ifの芽をひとつひとつ確実に刈り取っていくことだ」
と、私は天伝で語った。
そしてこの无伝。刈り取られずに育ってしまったifの世界は草が伸びたい放題のお庭のようで、彼女も生き生き伸び伸びと振舞う。ちなみに、訛り&野良着で人々と朗笑するねね様、完全に解釈の一致。
彼女は、この歴史上の異物となった大坂の地に送り込まれた存在である。彼女自身、悔いをやり直す形でやってきた。
ここがすごく難しい部分で、へたをすれば、偉大なる彼女が、利用される駒として小さく見えてしまう。へたすると、秀吉自身も小さく感じてしまう。利害の一致があった、ということでどうにか成立できる部分ではないか。

彼女がこの大坂に来た意味は、確かにあった、と思う。「史実」ではありえないことを成し遂げた。
彼女は秀頼に道を示し、秀頼に寄り添い、秀吉の半身として秀頼と豊臣の最期を見届けた。秀頼にとっては何よりの救いだろう。
そうして、自分の手で作り上げた豊臣を、自分の手で終わらせたのだ。綺麗に。
だが、彼女の出番ももう少し欲しかったとやっぱり欲が出る。方々でのナイスアシストっぷりが際立つゆえに、もっともっとストーリーの中心にぐっと割り込んでほしくなった。
これはもう、私が綺伝のガラシャ様に心をじゃぶじゃぶ洗われ、天伝でアイデンティティと向き合う人々に洗濯機の脱水のように心を振り回されたからである。
でも、そこが、秀吉の半身として豊臣家の実務を担って支えた彼女らしいのかもしれない。

この世界だからこそ輝く真田十勇士

これまでの歴史人物やオリジナルキャラクターとはまた違った角度からやってきた、真田十勇士たち。
先述のとおり、私が天伝鑑賞時点で予想していた以上の活躍となった。
公開されたキャストビジュアルを見て、その気合の入ったデザインに「うっわ、マジかよ」と声が出たし、実際に舞台を見ると「難しいことやるな~」と息をのんだ。

慈伝あたりでも書いたとおり、キャラクターコンテンツで人数が多いシナリオを書く仕事は本当に労力がいる。
全員分の設定を把握するのはもちろん、「主役格の見せ場・台詞数はこれくらいのボリュームにして、このグループの割り当ては……」と設計し、キャラクターらしさとその作品内での扱いに合わせた描写を常に管理しなければならない。

各作品の歴史人物や悲伝の「鵺と呼ばれる」くらいの割合・比率なら、まだ大丈夫。慈伝は全員原作に登場しているので、観客がおおまかにキャラクターを把握してから臨めるのでいい。
无伝の真田十勇士は、元ネタはあるものの、ほぼ本作のオリジナルキャラクターといってよい。しかも、正規の刀剣男士が8人、こちらは10人。
扱いとしては刀剣男士と歴史人物の中間(やや前者寄り)で、この人数比率でオリジナル要素強めのキャラクターを投入するのはかなりの冒険ではないか。

観客としては、歴史人物は元ネタを知っていれば脳内補完できるから、多少薄くてもどうにかなってしまう。「鵺と呼ばれる」は1人だから、あの濃さでもついていける。阿吽コンビは、ここでは置いておこう。
今回の真田十勇士のようにオリジナル要素の強い新キャラを10人、しかも刀剣男士に近いボリュームで出すとなると、難易度は一気に跳ね上がる。へたをうつと、客が混乱して物語に入っていけない。
たった数時間の中で、この10人を、『刀剣乱舞』のコンテンツのキャラクターとしてある程度立たせて見せなければならない。ただし、主役はあくまでも刀剣男士だ。彼らに割くべき時間を必要以上に削れば、刀剣男士の物語を見に来ている人々の満足度に影響を及ぼす。キャラクターコンテンツの事業である以上、それは避けなければならない。
つまり、ものすごくハイレベルなバランス感覚を要求される。

私が歴史人物の描写をもっと求めてしまったのは、彼らにかなりの時間が充てられた結果だと思われる。
だが、そもそも今回の大坂の陣は、もはや「歴史」とは言えない。
ありえないはずの出来事が起こっている世界だからこそ、創作上の存在とされて事実歴史人物とは言えない彼らが生きられるのだ。逆に、この世界でなければ、彼らの活躍はなかったかもしれない。

今までの流れから見れば面白かったが、私が无伝単独で観て同じように思えたかは疑問。
舞台刀剣乱舞も5周年。ここまで来て无伝だけ観る人もそうそういないだろうが、初めての現地鑑賞がこの作品だとしたら、天伝ほどのテンションになれなかった気がした。
无伝はいろいろな意味で実験作であり、特に真田十勇士をキャラクターとして好きになれるかどうかで、感想が大きく変わる。
真田十勇士のキャラクター造形については、元ネタを取り入れつつ、個性を抽出した台詞と見せ場がきちんと設けられているので、私にとっては最適化された見せ方だったと思う。

ステ歴1周年を目前に、新しい三日月宗近を浴びる

私は去年の一挙放送で刀ステに触れたため、三日月宗近に関しては今回が初の新規供給となる。
本当に彼は別格だった。これが天下五剣か。
ただ、同じく天下五剣の一振り、珠数丸が今回一緒にいた意味は、私が今感じているよりもずっと大きいと思う。

劇中、「誰のものでもない」と称される彼だが、鶴丸との会話で、何気ない日常も含めた彼らの本丸での物語が三日月宗近を強くしているという描写に心が崩れかけた。
物が語るから物語。付随する物語が強ければ強いほど、力を得られる。
私たちが共有している歴史とは別に、本丸での時間が刀剣男士としての彼に影響を与えているとか、ここで改めて描かれるのしんどくないか。みなさん、無事だったのだろうか。

そして、悲伝に新しい可能性が示唆された瞬間も変な声が出そうになった。うわー、これもっと前から追いかけてたら危なかった。私の場合、新規勢+記憶を失いやすいから、なんとか耐えられた。
そして、すっかりレギュラーとなったジョの御方。この先、まだまd長い物語が続いていくのだろうか。

文化芸術は感染拡大の場になるのか

※以下は、刀ステの話からだいぶ逸れるが、あとで自分の仕事に使うかもしれないので、「何を今さら」と思うことも含めてメモとしてだらだら記しておく。

冒頭で少し触れたとおり、私の席の周辺は会話などが目立つ人たちが複数組いたため(場内では会話禁止が明示されている)、文化芸術とコロナ禍について考えながらの鑑賞になった。
これは当該来場者を批判する話でも、感染者が出ること自体が悪いという話でも、会話を控えると実際どれほどの感染拡大防止の効果が得られるかという話でもない。
今回、会場での決まりを厳守する来場者のほうが圧倒的に多かった。そのうえで、案内されている方針から外れてしまう来場者がどれだけの影響を持つかを、改めて考えたいのだ。(私自身は「会場から求められていることには応じませんか」と思ったし、会場側の注意はちょっと厳しすぎるくらいでちょうどいいと感じている)

文化芸術にしろ、それ以外のジャンルにしろ、各地から大勢の人々が一堂に会すれば、感染の場になる可能性は必ず生じる。対策とはあくまでも、感染の広がりを最小限にするものであり、絶対はない。
「万全に」と事業者が宣言しても、本来コントロールの及ぶ範囲は自分たちだけで、広く公開すればその分、同じ考えではない人が来場する確率が上がる。そして、他者の考えを真に自分と同じものにするのは、平時であってもとても難しい。
どれだけ事業者が感染拡大防止に神経を使っていたとしても、最後の1ピースを埋めるのは利用者なのだろう。来場者の行動次第では、万全とは言えなくなってしまう。
実際に罹患していなくても、悪意をもっての行為ではなくても、明示されているルールに応じない人は、それだけで会場や周囲にとってリスクの高い存在になりえる。
その来場者が方針に沿えるように働きかけ、目を配り、フォローするのは事業者側の仕事だが、人数が多ければ多いほど漏れが出やすい。
来場者の努力も加われば、その漏れを減らすことは可能だとしても、来場者全員が同じモチベーションでいられるだろうか。
来場者それぞれの心がけに任せるのはやはり無理があるわけで、事業者は指針を示すのに加えて、臨機応変に誘導できるよう仕組みを整える必要がある。(考えの異なる来場者同士で注意しあうのはトラブルが生まれやすいので、できれば抑えたい)

舞台の話からそれるが、私の主な生息地である博物館美術館界隈も休む休まないの話で揺れた。
先日、文化庁長官から、「文化芸術に関わる全ての皆様へ」と声明が出された。その一部を引用する。(全文は上記リンク先)

 文化庁に設置した感染症対策のアドバイザリーボードの提言 では、クラシックコンサート・演劇等の公演は、観客が大声で歓声、声援等を行うものではないため、観客席における飛沫の発生は少なく、感染拡大のリスクは低いとされています 。これらの公演については、消毒や換気、検温、マスク着用の徹底はもちろん、観客席で大声を出さないことの周知徹底を行い、入退場時やトイレ等での密が発生しないための措置の実施や感染防止策を行ったエリア以外での飲食の制限、公演前後の練習や楽屋等での対策等を業種別ガイドラインに基づき行えば、リスクを最小限にしながら実施することが可能です。
 また、来場者が静かな環境で鑑賞を行う博物館や美術館、映画館等においても、飛沫による感染拡大のリスクは低いと考えられ、消毒や換気、検温、マスク着用の徹底に加えて、予約制の導入等による入退場の適切な管理を行い、展示の種類や態様に応じて密が発生しないような措置を講じるとともに、トイレやレストラン、カフェテリア等における感染防止策を業種別ガイドラインに基づき徹底すれば、リスクを最小限にしながら開館することが可能だと考えられます。
 実際に、このような感染症対策が適切に講じられている公演や展示において、来場者間で感染が広がった事例は報告されていません。

この声明が出されたのは、私が无伝を鑑賞する前日にあたる5月11日だった。
鑑賞後に改めてこの文を読み返しながら、自分がコロナ禍の中に置かれた文化施設を見つめる際、来場者が全員高いモチベーションを持って施設側の要望に応じることを前提としていたことに気づいた。
「来たくて来てるわけだし、みんな会場の方針に応じるよね」「ルールに沿わない人は会場側が対応するでしょう」などと安直な思考で済ませ、自分の目で周囲を見渡すことを怠ってきたように思えてくるのだ。

私がこの1年と少しで収集した情報は、どれだけの展覧会中止や休館があったか、文化事業者がどのような対策を講じるべきか、現場ではどんな苦労があるのかなどなど、主に施設側や行政側に焦点を当てたものだ。一方で、利用者(来場者、来館者)にあまり目を向けられてなかった、と。
現在、博物館業界はいくつか制度の見直しが検討されている。私はシンポジウムや人々の見解を聞きながら「社会や市民という言葉はよく出てくるけど、一般の来場者視点の話があまり出てこない気がするな~」とか思っていたが、コロナ禍については私自身が実際の来場者に関心を寄せることが少なくなっていたかもしれない。
大事なのは、問題のきっかけを感情に任せて叩くのではなく、大小さまざまな問題点を把握して解決策を随時考えていくことである。
私はなんの組織にも所属していない身だからこそ、いろいろな立場や角度から物事を見なければならないと思った。

一度、「マスクなど意味がない、着用を求めるのは同調圧力だ」と主張する人に遭遇したことがある。
これは極端な例かもしれないが、感染拡大対策のためにルール厳守の風潮が強くなると、体質上の理由で着用できない人以外にも、不自由を感じる人は出るだろう。今までどおりのスタイルで楽しみたい人もいるだろう。
けれども社会は変わってしまった。加えて、もともと文化芸術の場とはなんでもありの無法地帯ではなかったし、それを自由と呼んでいたわけではないはずだ。
多くの人が集い、鑑賞する場には、従来よりルールやマナーが存在している。そこに新しい項目が追加されただけだ。
行かない自由もあるからこそ、足を運ぶならばその場の決まりに応じるという意識を持ち続けたい。














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