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発信をやめるとき

志望校に受かりたいから勉強する。大会で勝ちたいから練習する。デートで可愛いって思って欲しいから精一杯オシャレする…

行動には目的がセットになっている。「ゲームが好きだからゲームやる」みたいに行動それ自体を楽しんでいる人もいるが、それは「楽しい」を享受するという目的がある。行動には必ず目的がある。その目的を見失うと、「最初は好きな写真を自己満足でアップしてただけなのに、いつの間にかいいね欲しさに映えばかり意識して新たなストレス源になっている」みたいになるんだと思う。

僕はTwitterを中心にメンタルヘルスの発信をしている。毎日毎日発信し続けて数年経ったが、振り返ると目的がブレている時期もあった。「トークショーをやりたい」「イベントを開催したい」「YouTubeで登録者10000人を1年で達成したい」「紙の本を出版したい」「インフルエンサーとして取材を受けたい」「企業案件を請けたい」「トレーニング事業を起ち上げたい」など、細かい目標が何度も浮かび、そのために行動したこともあった。実際実現したものもある。

ただ、結局これらの根底には「スゲーって言われたい」というみみっちい承認欲求があった。うっすら自覚もあった。僕の中で当時はこれらが発信者の成功ステータスに見えてたからだ。もちろん需要があるから実現するわけだし、こういうことをすればプラスを得る人はたくさんいるのかもしれない。

けどそれをいくらやっても僕は1番のターゲットを救えない。僕自身だ。

僕の発信の目的は、周りにも伝わりやすいようにするためのワードを全て取り除けば『自死を決意した当時の自分を止める方法を知りたい』だ。どうすればあの時の僕を止められるか?どうすれば僕は一瞬「死」以外に意識が行くか?どうすれば僕は冷静になるのか?僕はそれが知りたいから発信をしているのだ。

たくさんの言葉を考えた。イベントもやった。ずっと戻りたかったマンガ家にも戻った。病気になる前より遥かに反響も得た。でも、そのどれを見せても当時の僕を止めることは出来ない。何回想像してみても、当時の僕が今の僕を見ても「生」を選ぶことはないだろう。

何が過去の自分を救済するのかが分からない。

自分が何に価値を感じるのか、自分は何なら諦められて何なら平気で捨てられて、何を諦められなくて何さえあればいいのか。それが少しずつ少しずつ見えてきたことで、周りも時代も何も関係ない自分の根源的な欲求が何なのかが少しずつ見えてきたことで、僕の救済は近づいているのだろうか?

答えが見つかり、『自死を決意した当時の自分を止める方法を知りたい』という目的が達成されたときに、僕は発信をやめると思う。僕の発信は全て過去の僕に向けられている。答えを見つけたら、その答えとやらを発信し、それで終わりだろう。ツイートか、noteか、本か、動画か、写真か…何かは分からないが、答えを発信して終わりだ。それ以上する目的がないから。

少しずつ答えに近づいている気がする。きっともう少しだ。その瞬間、何を思うのだろう?僕にどんな変化が起きるのだろう?発信をやめた僕は何をするのだろう?

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