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目と、やりたいことと

目が壊れてスマホやパソコンの光、日光や照明など、あらゆる光を受け付けなくなった。光を浴びると目が痛くなって、ダメージが最悪レベルにまで蓄積すると1日中ほとんど目を開けられなくなってしまう。

出来ることが日に日に減っている。いや、やっぱり出来ないんだと思い知らされる、と言ったほうがニュアンスが近いのかもしれない。

日々『あれダメこれダメ』ばかりを叩き付けられるのは流石にしんどい。「これなら何とかなるかもしれない」と思ったことが「これもダメなのか」に変わる瞬間の気分は、文字通り絶望感という感じだ。『希望を失う瞬間こそが1番の絶望だからパンドラの箱の底には希望が入っていた』なんて説を聞いたが、なるほどなと改めて思う。

仕事には光が伴う。スマホの光もムリ。日光もムリ。デパートの照明もムリ。電車の照明もムリ。部屋の照明もムリ。コ○ダ珈琲みたいな茶色いシックな照明もムリ。暗い照明のバーなら何とかなるかもしれないが、禁酒令や緊急で別の角度からムリ。ムリムリムリばかりで何もできない。仕事も失い貯金も無くなり大好きな武術の稽古にも行けず、真っ暗な部屋でただ目の痛みに泣くだけの日が1日もあれば人一人の精神を破壊するには十分だ。

「事故や事件で腕の一本でも無くなればずっと障害年金を貰えるのにな」なんて何度も考えた。

正直、うつ病であらゆる人間生活が送れなくなったときの絶望感の経験がなければ今耐えられなかったかもしれない。むしろ目が原因でうつ病になっていたかもしれない。

「もうこの目で多くは望まない。嫁とこの家でただ暮らせればそれでいい」と、目の痛みで泣きながら最近そればかり考えた。

『「諦める」は「明らめる」』

『諦めたくないことを諦めない為には他のたくさんの何かを諦めなければならない』

『人はした後悔よりもしなかった後悔の方が長く強く残る』

こんな誰かの言葉が頭の中をぐるぐる回った。今も時に回る。最低限の生活ができればそれで良いという気持ちとやりたいことをやりたい気持ちがぶつかっている。

"うつ病になって出来ないことが増えた。後遺症もあるし再発への恐怖もある。けどそれは病気になる前の自分より劣るのではなく制限があるだけ。パンチ以外を制限されたことでボクシングがパンチ最強になったように、出来ないことが増えた=不幸とは限らない。元の自分に戻れなくても超えることはできる。"

僕がかなり前に書いたこんな言葉に今自分がギリギリの希望を貰っている。やりたいことがやっぱりある。この目で出来るのか分からない。出来ないことが増えている。この先もきっと増える。でもやりたいことがある。

諦めて最低限の生活だけを続けていくのが1番合理的なんだろう。目がどうにもならないのはもうウンザリするほど痛感している。でもやっぱり諦めたくないことがある。

別にデカいことをしたいわけじゃない。いわゆる成功者を目指してるわけじゃない。他人にチヤホヤされたいわけじゃない。何かを得たいわけじゃない。ただ"成りたい自分"がある。

もうこの目で多くは望まない。その気持ちは変わらない。例えば光を長時間ガンガン浴びなきゃ出来ないようなことなら流石に諦める。でもやりたいことの中には「工夫すれば何とかなるんじゃね?」と思うものもある。

目的地さえ決まっているなら道は後から探せばいい。電車でもバスでもタクシーでも徒歩でもいい。高くて乗り換えが多いけど速いルートでも、遅いけど安くて乗り換えが少ない楽なルートでもいい。何なら自宅からリモートで現地を見るのでもいいかもしれない。

もうこの目で多くは望まない。嫁とこの家でただ暮らせればいい。

でもやっぱりやりたいことがある。どうしても諦め切れないことがある。

描き残したマンガを完遂したい。

精神疾患の人が病気をオープンにして駄弁れる場所を作りたい。

シラットで戦いたい。

美しくなりたい。

何とかやる。この目で出来る仕事に何があるのか分からない。その仕事が稼げるのかも分からない。でも何かしらあるはずだ。

でもでもでも。何度でも「でも」を言い続ける。

この目の現実は変わらない。カードは僕に配られてしまった。手札はもう変えられない。でもポーカーなら使えない組み合わせでも大富豪なら戦えるかもしれない。

配られたカードで戦え。

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