「総合政策学」の30年を書きました。

慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士2年の西村と申します。来年からは企業の研究職として、主に組織やデザイン、そして実践知に関する研究に従事することが決まりました。

修論を書くのが疲れたので気分転換に記事を書いてみます。テーマは「総合政策学」についてです。慶應SFCの上山信一先生にお声をいただき、共著として執筆に関わらせていただいた論文『総合政策学-30年の回顧と展望―理念、研究、改革実践の創発的発展』が最新号のKEIO SFC JOURNALに掲載されています。貴重や経験ができたので、読みどころとか、論文に書き漏れてしまったバックストーリーも書きまとめようと思います。

KEIO SFC JOURNALの21巻1号には「古くて新しい総合政策学」という特集号タイトルがついています。この特集号は慶應SFCが日本で初めて「総合政策学部」を立ち上げてから30年が経過し、次の30年の「総合政策学」のありかたを様々な視点から議論した論文が集まっています。秋吉論文が「政策科学」というマクロな見地から総合政策学を論じており、上山・西村論文は「実務と研究の架け橋」という観点から総合政策学の実体を捉え、宮垣論文は「コミュニティ」、鶴岡論文は「外交」、藤井論文は「金融取引とデジタル化」という踏み込んだテーマの中で総合政策学を論じているという印象でした。

実のところ「総合政策学部」が設立されてから、何度か「総合政策学とは何か」というアイデンティティを再確認しようと試みる機会がありました。今回の論文誌に関しても30年目に際して、改めて「総合政策学」を再確認するという企画になっています。

[注1]主な「総合政策学とは何か」を論じた資料
〇黎明期・・『総合政策学への招待』(加藤、1994)
〇約15年経過後・・『総合政策学―問題発見・解決の方法と実践』(岡部ら、2006)
〇30周年経過後・・『総合政策学-30年の回顧と展望―理念、研究、改革実践の創発的発展』(上山、2021)

内容については論文に記述されているので省略し、執筆の経緯から紹介します。自分は大学院の授業で上山先生の授業(行政組織の経営という授業です)を受けていたのですが、全授業終了後に上山先生から「SFCジャーナルと土屋先生から総合政策学とは何かを書くことをお願いされ、自分だけで書くのは難しいから、正反対の知見を持っている君と共著したい」というメールを頂きました。私は上山ゼミでも何でもないですが、「絶対に参加した方が自分の身になる」という第六感が働き、サブ研究として参加することにしました。

[注2]上山先生の「行政組織の経営」は院生対象の授業ですが、最終的には院生は自分しか受講生がいませんでした。結果的には一番受けてよかった授業になりました。

正反対というのは知的関心を指すと思います。上山先生はマッキンゼー出身で、数多くの行政改革や企業改革に従事してきた「現場・個別具体」の志向を持っています。抽象的な概念を洞察するよりも現実を変える方が好きなタイプです。一方で西村は前述の通り、科学哲学や科学社会学を背景にしているのでどうしても「理論・一般抽象」を志向しがちであり、「基礎」とか「一般」という言葉をつい追っかけたくなります。そんな二人が議論してしまうと、考えていることや理想としていることが真逆になるので、たちまち「何を言ってるのかよく分からない」状態になりやすく、しかも互いに引かないので、激しい掛け合いになります。ただ、そうした両極端な目線から「総合政策学」を捉えるという試みだったからこそ何とか投稿に至れたのかなと思います。

執筆は11月から始まりましたが、「総合政策学」の歴史や概念をリサーチし、その結果を上山先生に報告し、対話して揉んでいくという形で研究が進みました。担当箇所に関してはgoogle documentを共有して執筆を進めました。朝起きたらすごい数のコメントが入ってたりしてゲンナリしてたこともあります。途中で自分がコロナに感染してホテル療養になるなど予想外なことも起こりました。幸いにも軽症だったので、ホテル内で就活もしながら原稿の執筆に取り組んでいました。結果的には二人で50000字、図表も20枚を超える原稿になったのですが、SFCジャーナルの投稿規定に合わせて20000字に削り(主に僕の箇所が削られ)、2021年の3月に本稿が完成しました。

[注3]50000字だと思ってたら英文50000wordsだったという勘違いをかましました。日本語の字数制限は20000字なのでSFCジャーナルに投稿される方はお気を付けください。

削った箇所に関しては、上山先生と西村のそれぞれの論文のネタにもなっています。上山先生の執筆箇所に関しては、月刊ガバナンス5月号『これからの自治体ガバナンス──「民営化」「政治主導」「科学依存」「データ主義」の時代を見据えて』にも活かされており、西村の箇所に関しては現在査読中の単著論文に活かされています。自分の論文に関しては論文誌への掲載後にお伝えできればと考えています。また以下の記述内容は一年振りに当時のメモを取り出して書いたものであり、論文に収録されなかった箇所です。曖昧になっている点があることをご承知ください。

論文の読みどころ

この論文の個人的な読みどころを三点ほど紹介します。

〇第一に総合政策学を「理念」「研究」「改革実践」の三種に分けて議論していることです。

「理念」とは総合政策学とはという基本哲学、「研究」は実際に学術論文として書かれるような研究、「改革実践」とは総合政策の実践を指します。図表1にもあるように総合政策学の「理念」が「研究」と「改革実践」のありかたに影響を与えるという構図です。単に総合政策を「理念」として語るものは数多くありましたが、具体的な研究や改革実践という諸活動の文脈の中でどのようなものとして捉えられるのかを議論しています。そして岡部(2006)などでは「理念」「研究」に字数が割かれていましたが、今回の上山・西村論文では「改革実践」に多くの字数を割いているのも特徴です。

〇第二に、改革実践パートでは総合政策学を「受肉」した存在として主著(上山信一)を登場させた点です。

今までの「総合政策学」を論じた論文は、総合政策学が「現実に影響を与える(平たく言うと問題発見・問題解決)」という特徴があるという理念の記述で止まるものが多かったですが、本稿について著者の一人として面白いと思っているのは、第一章・第二章で「総合政策学を受肉した改革実践者」としての「上山信一」の語りを記述した点です。これは我々がディスカッションの中で「総合政策学の研究成果は論文のみでは現れず、寧ろ総合政策学を学んだ「改革実践者」が世に輩出されたことも総合政策学の学術的成果」と判断したことが影響しています。そこでSFCの実務家教員は「総合政策学」を受肉して実務的活動に取り組まれている訳であり、そのリアルを記述するために総合政策学を受肉した「改革実践者」の代表として上山信一を論文中に登場させることにしました。結果として、総合政策学を受肉した「改革実践者」が実践の現場でどのように振る舞うのかについて実態に踏み込んだ記述ができ、重要な鍵概念(①外部プロデューサー主導の課題整理、②仮説に沿った専門家の知見の引き出し、③政策変更への官僚組織の内諾獲得、④顧客志向、⑤現場主義、⑥成果志向、⑦データ主義、⑧組織内へのオーバーコミュニケーション、⑨納税者視点のガバナンス構築)を抽出できました。

〇第三に、「総合政策学を研究者視点の天動説から、社会課題視点の地動説に切り替える」というビジョンを提示した点です。

研究者視点に限定して総合政策学を捉えると「研究」の範囲の中で社会を見てしまいがちです。その結果、総合政策学の営みが、図表6における中程の四角形の範囲に留まってしまいます。しかし本稿では総合政策学を「社会課題」視点に切り替えることで、社会課題への多元的な「かかわり」こそが総合政策学的な営みなのではないかという解釈を提案しました。もちろん、社会課題に対しては従来のように「研究」として携わることも一つのかかわりかたですが、肝心なのは「研究」と「それ以外」にヒエラルキーを設けないことです。すなわち改革実践者として関わることも、その他の立場から携わることも、全て「総合政策」における学知を創出する行為であり、掛け替えのないものと考えています。このように「総合政策学」とは社会課題に多元的な立場・手法で関わっていくこと(研究、改革実践、etc・・・)を包括するものという見方を提案しています(天動説⇒地動説の比喩)。この部分に関しては後ろでも解説いたします。

論文から漏れた話

ここからは論文で書けずに削った話です。「総合政策学とは何か」に関する議論は、2003年-2008年までの「文部科学省 21 世紀 COE プログラム:日本・アジアにおける総合政策学先導拠点−ヒューマンセキュリティの基盤的研究を通じて−(以下「政策 COE」)」時に刊行されていた「総合政策学ワーキングペーパーシリーズ」の中で盛んに行われていました。

以下の図表はSFCのCOEプロジェクトから生まれた「総合政策学」の理念に言及したワーキングペーパー論文です。現在のKEIO SFC JOURNALの母体にあたります。ワーキングペーパー自体は150ほどあるのですが、その中のNo.1,76,77,78,81,102,105,116,146が、少なからずとも「総合政策学」の概念について踏み込んだ記述がされている論文です。

総合政策学

[注4]実はこのワーキングペーパーは三田の図書館に行っても見つからず、仕方なくSFCのメディアに行かないと閲覧できませんでした。なので数時間かけて三田から湘南まで移動しました。以前はWebにPDFで掲載されていたみたいですが・・・。

その後他大学で「総合政策学とは何か」の議論が度々行われてきたものの(島根県立大学の村井(2020)など)、SFCにおいては『古くて新しい総合政策学』特集号が久々に「総合政策学」の原点に立ち返る試みではないかと考えられます。今回の記事は「総合政策学」について考える上で、総合政策学の発生から現在までの過程をレビューしていきたいと思います。

総合政策学の発生から見ていきます。1983年当時塾長だった石川忠雄は、慶應義塾125年記念祝典において、「新しい現象に対処すべく自分の頭で物を整理し、判断し構成する力が必要である」と述べた上で、「既存の学問間の交渉領域の研究も重要」と主張しました(石川 1983)。こうした発言が足がかりとなり86年に学際系の新学部設立方針が公開され、1986年10月から「新学部検討委員会」が始動しました。なお当時の委員会にかかわる資料がほとんど残されていないので踏み込んだ記述ができなかったのが悔しいです。

「総合政策学」という名称はどこから来たのかですが、最初から決定していた訳ではなかったようです。関口(2000)によれば学部のカリキュラムを体系的に決めていく中で、総合政策と環境情報という名称は「後回し」で決定されたことが伺えます。つまり「総合政策」という学問領域を創ろうとトップダウン的に決めたのではなく、新しい学際的な学部を形成しようということは先に決まっており、そこで必要な学びを構成し「新しい学問の再編成」や「二一世紀の若者に必要な教育」を考えた後に学部の名称を考えたというプロセスであったことが伺えます。『異端の系譜』の中西氏の記述の中では石川塾長が1986年10月1日の第一回新学部検討委員会においてSFCのコンセプトを聴かれた際に「正直に言うと白紙」「横断型学部を考えている」などと答え、さらにその後の委員会でも「初めから決まっているんじゃないかといううわさがあるらしいが、そんなことは全然ない」と答えていると触れられています(中西 2010)。

[注5]今回の『古くて新しい総合政策学』特集号に掲載された秋吉論文では、総合政策学が政策科学の文脈を組んでおり、白紙から始まっている訳ではないという旨が記述されています。この点秋吉論文が依拠する「政策科学」の視点では「白紙から始まっていない」訳ですが、上山・西村論文が依拠する「慶應義塾」という視点からは「白紙から始まっている」と解釈できます。

例えばSFCの創設期の委員会に井関氏が掲げたのは「①新しい人材を育てる、②新しい学問をつくる、③学生と教員の新しい関係づくり、④学生同士の新しい場づくり、⑤地域社会と交流する共同プロジェクト、⑥国際的なワールド・ソサエティをつくる」ことであり、予め枠組みとしての「総合政策学をつくる」ことは念頭に置かれていなかったといいます(朝日新聞EDUA 2020)。新学部名称については塾生新聞が「国際関係学部」が有力だと報じたり(関口 2000)、中西の『異端の系譜』では「世界学部」「国際関係学部」「国際学部」「現代文明学部」「社会科学部」などの名称にすることも検討されていたと記されています(中西 2010)。

すなわち慶應が総合政策学部を立ち上げた時点では「総合政策学」という概念は明確に存在しているとまでは言えなかったと解することができます。「法学部」や「経済学部」と同じように特定の学問を教えるために設立した訳ではなく、時代に合わせた学びを追求して新たに設立された学部に「総合政策学部」という名称が後でつけられたと解釈できます(執筆時にもこれは「総合政策学」というより「SFC学」の方が正しいんじゃないかという議論もしました)。そんなSFC設立時に重視された「問題意識」「基本理念」「キーワード」をまとめたものが次の図です。

総合政策学3

しかし1990年代に慶應義塾大学に総合政策学部ができると、後追い的に「総合政策学部」が中央大学(1993年)や関西学院大学(1995年)など数多くの大学に登場しました。これらの「総合政策学部」は他の著名大学に「総合政策」学が移転・波及していく中で、徐々に「そもそも総合政策学とは何か」「総合政策学を学んだ人間はどのような知見・能力を獲得したことになるのか」のような定義に関する問題に直面するようになります。

例えば中央大学総合政策学部の平野は「「総合政策」とは、複数の異なる知見や意見を検討した上で一つに取り纏めて(以上が「総合」)、目的達成の為の最適な選択肢を導き引き出すこと(以上が「政策」)」と定義しています。また「人文科学、社会科学、自然科学、工学及びその他の関連諸分野を総合する観点から、現代社会における政策に関する理論及び諸現象にかかる教育研究を行い、「政策と文化の融合」の理念の下に不確実でグローバルな時代に必要とされる高度な知識を持ち、文化的背景を理解して現代社会が抱える諸問題を解決し、より良い社会を構築しうる人材を養成する」と教育目標を立てています(平野 2007)。

また関西学院大学総合政策学部は何を「総合」するのかに重点をおいて議論を重ねたといいます。その結果「エコロジーを一つの視座として考え」、「経済学、法学、社会学、工学と言った今まで各学部で専門的に教えられていた学問をすべてエコロジーという視点から捉え直し、政策立案に活用していく学部であるという説明を載せて」いたとしています(天野,2004)。そして現在においても関西学院大学総合政策学部はヒューマンエコロジーという考え方を軸としています(関西学院大学)。

総合政策学2

本論文の執筆にあたり、全国の総合政策学部のカリキュラム・ポリシーを全部調べました。調査して分かったのは「総合政策学」とは言っても各学部が取り組んでいることはバラバラだということです。特に地方大学の総合政策学部の場合は「地域政策学部」と言っても良いのではないかという地域性に特化したものも多く、また「国際教養学部」といえるほどに国際性を打ち出す学部もありました。また経済学部や法学部の下に「総合政策学科」がつく場合は、あくまで経済学や法学の基礎的科目必修であったりと、「総合政策学」とは言っても学ぶ内容は全く異なります。全大学の総合政策学部のカリキュラム・ポリシーをエクセルにまとめて概覧し、共通する特徴を抽出したら次のようになりました。

①社会問題解決に通ずる学際的かつ実践的な学びを志向する
②問題解決者としての学生の主体性や当事者性から現れる問題意識を重視する
③総合政策学科の上に学部(経済学部・法学部等)がついている場合は、その学部の基礎を身につけることが前提となっている。またそうした学科での「総合政策」とは実社会への応用・活用などの意味が込められている
④基本的には社会科学(政治学・経済学・法学)がディシプリンのベースとなっている。情報学や自然科学は副次的な扱い
⑤”語学力””国際性”を重視している学部が多くを占める
⑥社会問題に関する「情報発信」や「コミュニケーション」力を重視する
⑦総合政策学は「時代が求めている」という前提に立っている
⑧公共アクター(政治家・公務員・NPO)などを担うことを期待する学部と、公的問題解決に資する人材になればいいと立場を限定していない学部に二分される
⑨「総合政策」を銘打つ学部は私立大学と公立大学にしか見られない。国立大学には法政策学部や地域政策学部などの名前で存在する。
⑩スペシャリストよりもゼネラリストを育てる特徴がある。

さて、慶應義塾大学に総合政策学部が誕生してから、このように他大学に総合政策学部が波及した訳ですが、他大学が慶應と同様に「総合政策学」という名称を採用しても、「総合政策学とは何か」が基礎づけられていない状況で波及したため、根っこの議論、つまりなぜ総合政策学という新しい学問をつくろうとしたかに関する問題意識が不在な状態で「総合政策学部」が設立されることになります。したがって中央大学や関西学院大学のように「当大学における総合政策学とは何か」の定義を各大学で行う必要がありました。

慶應義塾大学は、設立当時からのコンセプトは存在しつつも、学問領域・体系としての「総合政策学」とは何かがはっきりしないまま10年が経過しています。他の大学にも総合政策学部が出来上がりつつある中で、旗振り役の責務として「総合政策学」の概念や理念を整備する必要が生まれつつありました(岡部先生曰く「社会的責務」があったみたいです)。

そこでSFCでは2003年に「文部科学省 21 世紀 COE プログラム:日本・アジアにおける総合政策学先導拠点−ヒューマンセキュリティの基盤的研究を通じて−」が立ち上がります。通称「政策COE」と呼ばれるこのプロジェクトは、総合政策学の理念の形成と具体的な研究方法論を固める試みでもあります。当時総合政策学の理念を「ヒューマンセキュリティ」に求めており、「様々な危機から人間の安定した生活基盤を保全するという実践的課題」(國領、2007)を実践的に解決する学問として総合政策学を位置づけようと試みられていました。

國領(2007)によると「ヒューマンセキュリティ」はアマルティア・センらが中心となってまとめられた”人間開発報告書”(UNDP、1994)より提唱された概念であり、「従来の国家の安全を中心に組み立てられていた安全保障の考え方を、戦争状態なくとも飢餓や人権侵害などによって苦しむことがありえる人間を中心として考え、より現場に近い視線で安全の問題を考えようとするもの」とまとめています。

よりヒューマンセキュリティと総合政策学の関係について語られたのは梅垣論文(2005)においてです。梅垣論文ではヒューマンセキュリティの概念は「政策命題の内的整合性(上流の目標)を離れ、実際の生活のなかでのみ評価可能な政策の効果に着目する(下流の目標)」という政策課題の視点転換に貢献したと評価されています。その上で総合政策も「実践の学問」として政策の「下流」に着目するという特徴が語られています。 

[注6]しかし実のところ「ヒューマンセキュリティ」と総合政策学の結びつきを先生方から聞いたことはありません。15年ほど経過している現在においては重要な概念とは言えなくなっているか、自明化して「ヒューマンセキュリティ」という用語を結び付けなくても良いようになったのかもしれません。

以上のような議論を含めて、「総合政策学」概念を丸ごと説明した論文として岡部先生の『総合政策学の確立に向けて(1)(2)』が挙げられます。上山・西村論文における三章「政策 COE の研究成果にみる総合政策学の「理念」」で抽出した鍵概念は凡そ岡部論文からの引用です。総合政策学の理念と学問的方法論を系統立てて議論しているのは(2)ですが、(1)は議論の前提となる「政策」概念についての解説がされているので(1)から通読すると理解が深まるのではないかと思います。

総合政策学5

この図は最終版ではありませんが、大体の特徴を掴むことに役立つのではないかと思って掲載します。なお上山・西村論文ではこの図からさらに鍵概念を精査し、①ガバナンス、②社会プログラム、③サイエンスとアートの併用、④動態性と通時性の重視、⑤アーキテクチャとモジュール、⑥スリーワークアプローチ(フィールドワーク、ネットワーク、フレームワーク)を抽出していますが、字幅の関係で詳細な解説が書けなかったため、是非とも岡部先生の論文にあたって頂けると嬉しいです。

[注7]2007年に行われた岡部先生の最終講義、「日本経済と私とSFC」については現在もWebで見られるようになっています。
https://gakkai.sfc.keio.ac.jp/archive/lecture/jp/sfc-4.html

ただ「文部科学省 21 世紀 COE プログラム:日本・アジアにおける総合政策学先導拠点−ヒューマンセキュリティの基盤的研究を通じて−」に関しては文科省の政策評価では厳しく批判されています。

『21世紀COEプログラム 平成15年度採択拠点事業結果報告書』によると「拠点形成計画全体については、総合政策学という理論構成が、多岐にわたる分野をヒューマンセキュリティ研究として有機的に関連付ける力を持つに至っておらず、中間評価結果を踏まえた計画の再編にも成功しているとは言い難い」「研究活動面については、個別的な成果は認められるものの、断片的であり全体としてまとまりのある成果となっていない。また、国際社会に向けた発信についても、国際的学術雑誌への投稿論文が少ないなど、十分とは言えない」などと記述されています。

加えて「本拠点が目指した「総合政策学」は、従来の「国家権力に根ざした政策を立案する」ための学問ではなく、「具体的な社会の問題発見、解決にかかわり、その中から学ぶ『実践知』の学問」である。この認識のもとに、研究と拠点形成を行なってきた。評価者は、本拠点の「総合政策学」の意味を取り違えてコメントされていると思われるため再考をお願いしたい」とした意見申し立て箇所においても、「申立ての内容を踏まえても、なぜ「実践知」にかかわる学問が国家権力による政策立案を無用あるいは補完するのか、説得的に解明されているとは言い難く、修正しない」という返答がありました。この意見申し立てのやり取りからも「実践知」の学問として定義付けようと試みた「総合政策学」が、当時は前衛的であったことが伺えます。

[注8]総合政策学を定義する試みの是非についても議論の対象になりました。設立時に「総合政策学をつくる」ことは念頭に置かれておらず、「新しい学問の再編成」や「二一世紀の若者に必要な教育」を考えることが重視されていました。「総合政策学」という名称については「後回し」でついたものです。ともするならば「総合政策学はかくあるもの」という「総合政策」という文言について普遍的説明を与えるのは誤ったアプローチなのではという議論もしました。

過去を振り返ると総合政策学は大学の「学術」として誕生しましたが、同時に従来の「学術」を自己批判して生まれた概念だったといえます。ところが2003年以降の政策COE以降に起こったのは総合政策学を「学術」のなかに改めて位置づけようとする試みであり、COE報告書でも「総合政策学会の設立」が提言されたりなど、既存の学術システムに類似したものに舵を切る方向が見られたりもしました。

しかし元々総合政策学が目指されていたのは研究と教育、学術と実践の境界線を融合する野心的な試みでもあり、確かに現場レベルでは「総合政策」で重視されている各種のアプローチを活用して数多くの社会課題解決が図られているし、学内研究から数多くの起業・試行的事業が生み出され、また各界に人材を輩出し続けています。この点実践成果を研究成果に含める広義の学術としての「総合政策学」は十分に成果を残しているのではないかと判断しています。

我々は「社会問題に多元的な立場でかかわり、そこから多次元的な着眼点を得ていくこと」こそが総合政策学の専門性と考えます。例えば貧困という問題について研究者として関わる方法もありますが、NPO、コンサルタント、市民、主婦、野球選手など様々な立場の関わりかたが想定され、その関わり方の違いが多様化することで、現実を改革するために注目すべき次元も多次元的になり(「社会課題」「ステークホルダー」「場所」「政策 ライフサイクル」「風土」「分野」「政策手段」「データ」をこの論文では挙げていますが)、その社会課題を改革していくための方策も練りやすくなります。そのような多様な関わりに基づく学問を可能にするには「総合政策学」のうちにあらゆる立場の人が共存する、福沢諭吉のいう「人間交際」が行われている必要もあります。そうした議論を背景として、当該論文でも論じた「総合政策学を研究者視点の天動説から、社会課題視点の地動説に切り替える」というコペルニクス的転回の提案に繋がっているのです。

[注9]「現場での実践を学術に包摂するか」に関しては、私自身の修士研究における重大な問いです。ただこの問いはSFC設立時から重要なテーマだったことが伺えます。SFCの設立と同時期に、東大教養学部において宗教史学者の中沢新一氏の登用をめぐる学問的論争「東大駒場騒動」が発生しました。騒動の焦点は中沢氏のチベット密教の「現場」に赴く研究の方法、そして「ニューアカデミズム」の学術性であり、結果的に中沢氏の登用は見送られて1993年に中央大学総合政策学部教授に就任、中沢氏の登用に賛成派だった政治学者の佐藤誠三郎氏はSFCに移り、創世記のSFCを支えました。同じ賛成派だった公文俊平氏も同騒動で東大を離れ、国際大学GLOCOMの所長としてSFCと共同研究に取り組んでいます。この東大駒場騒動とSFCの関係についても書きたかったのですが、字幅がありませんでした。

総合政策学のバトン

2021年9月に『総合政策学-30年の回顧と展望―理念、研究、改革実践の創発的発展』がKEIO SFC JOURNALに掲載された後、上山先生宛てに岡部光明先生からのメールが届きました。メールでは「総合政策学」の改革実践に基づく洞察を上山先生が担当し、概念と歴史のレビューは西村が担当するという相互補完的な執筆についても「貴重」であるとお褒めの言葉を頂きました。加えて「改革実践」への踏み込んだ言及についての独自性についても評価頂けました。岡部先生は2005年時点で総合政策学の理念構築に取り組まれていた大先輩であったこともあり、岡部先生にどのように読んで頂けるのか少し心配でした。ただこのメールでは本稿に対するお褒めの言葉に溢れており、とても安堵したことを覚えています。

折角なので2021年10月30日に、虎ノ門の上山事務所で岡部先生、上山先生、西村、あと上山研の院生2人で座談会を行いました。岡部先生からは総合政策学が「Discipline-oriented approach」から「Issue-oriented approach+Policy requirement」への転換であることを解説頂き、また政策COEの当時に関する話や、岡部(2006)の執筆秘話なども様々お伺いいたしました。上山研出身の院生2人も論文を先んじて目を通していただけており、「先行研究の著者(岡部先生)」「共同執筆者(上山先生+西村)」「読者(院生2名)」で論文を読み込み、解説を加えていき、問いを投げかけていくという輪講のスタイルで座談会が進みました。座談会の内容については内容が濃すぎてnoteに書くのは勿体なく、実際に論文に反映したい論点もありますので、ここでは割愛したいと思いますが、忘れられない一日になりました。

[注10]「楽しかった」と50回くらい口に出したと思います。上山研の小路くん、西岡くんも議論に参加して頂き、ありがとうございました。めちゃくちゃ原稿を読み込んで頂けて嬉しかったです。

2005年に玉稿をお書きになられた岡部先生に、本稿を前向きに評価頂けたことは嬉しく思います。取り組んだ仕事を評価して頂いたことも勿論ですが、リアルに命を削って書いた原稿に反応を頂けたことは冥利に尽きます。

また本稿の執筆を通して改めて「総合政策学」を論じる難しさを実感しました。総合政策を他者に説明するときに「問題発見・問題解決」や「分離横断型」のような抽象的な言葉で分かった気になってしまいがちです。ただSFCの「総合政策学」は1980年代から抱き続けてきた慶應義塾の問題意識より生成された特性があり、その根本から紐解いていかない限り、なかなか「総合政策学」は上辺しか掬えない複雑な概念なのだと感じました。

今回歴史を辿っていく中で「総合政策学」はSFC設立時の理念を守りつつも、「実践知の学問」として発展を続けていることも理解できました。1990年にSFCが誕生してから「社会課題」は起こり続けています。災害という面では阪神淡路大震災、東日本大震災という二度の大震災を経験し、異常気象による大洪水が毎年起こり、昨今では感染症が世界中を脅かし続けています。ただそうした危機に対峙する「改革実践者」が在学生・卒業生ともに多く輩出されています。ともするならば「社会課題」に「かかわること(関与すること)」自体が「総合政策学」の学術的発展を支える営みといえるのではないかと我々は考えています。

上山・西村論文を含むこの特集号で「総合政策学とは何か」の議論に決着がついたとは思っていません。今まで加藤寛・岡部光明・上山信一を中心に、度々SFCの中で「総合政策学とは何か」に関する議論のバトンパスが行われ、定義の修正が行われてきました。同様に今後も頻繁に「総合政策学」の概念の修正が行われ続けるのではないかと展望します。現に加茂学部長が2021年12月8日の「おかしら日記」にて「総合政策学の現在を問う」本をつくるプロジェクトが進行していることを明かしました。

今回自分がnoteを執筆したのは、「総合政策学のバトン」を託された一人として、調査内容や考察を残すことは「総合政策学のバトン」を繋いでいく上で、大切な試みだと考えたためです。自分も高揚感に包まれています。

謝辞

最後になりますが、上山先生に「一緒に論文を書かないか」とお声を掛けて頂けたことにも感謝しております。自分は7年前に慶應義塾大学の総合政策学部のAO入試を受験し、主著である上山信一先生と面接で対峙して不合格になった過去があります。ただ今回このように(因縁の)上山先生とこのような形で「総合政策学」をテーマに論文を書けたということは、SFCに学部時代から在学できなかったという引け目を吹き飛ばすほどの強い意味がありました。また岡部先生には実際に論文をお読みいただくだけでなく、政策COEや総合政策学の理念の再構築に携わられたエピソードなどをお聞かせいただきありがとうございます。

「総合政策学のバトン」を確かに受け取りました。

文献

UNDP:人間開発報告書1994,http://www.undp.or.jp/HDR_J/HDR_light_1994_Japanese_Version.pdf,1994
秋吉貴雄:政策科学の展開と変容 -総合政策学への示唆,KEIO SFC JOURNAL,Vol.21,No.1,2021
朝日新聞Edua:慶應SFC編⑤ 開設メンバーが語る「激しかった議論と今のSFCへの思い」,2020
天野明宏:総合政策学部設立理由,2004
石川忠雄 :慶應義塾創立 125 周年記念式典,1983.
上山信一,西村歩:総合政策学-30年の回顧と展望―理念、研究、改革実践の創発的発展,KEIO SFC JOURNAL,Vol.21,No.1,2021
梅垣理郎:ヒューマンセキュリティと総合政策学,大江守之、岡部光明、梅垣理郎編,総合政策学 問題発見・解決の方法と実践―,慶應義塾大学出版会 ,2006
岡部光明:総合政策学の確立に向けて(1):伝統的「政策」から社会プログラムへ,大江守之、岡部光明、梅垣理郎編,総合政策学 問題発見・解決の方法と実践―,慶應義塾大学出版会 ,2006
岡部光明:総合政策学の確立に向けて(2):理論的基礎・研究手法・今後の課題」大江守之、岡部光明、梅垣理郎編,2006
加藤寛、中村まづる:総合政策学への招待,有斐閣,1994
関西学院大学総合政策学部総合政策学科:ヒューマンエコロジー,https://www.kwansei.ac.jp/s_policy/s_policy_009629.html
慶應義塾大学:日本・アジアにおける総合政策学先導拠点―ヒューマンセキュリティの基盤的研究を通して―,21 世紀 COE プログラム 平成 15 年度採択拠点事業結果報告書,2008.
國領二郎:政策 COE の軌跡と意義,KEIO SFC JOURNAL ,Vol.8,No.1,2008
関口一郎:慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス 開設史,2000.
中西茂:異端の系譜ー慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス,2010.
平野晋:総合政策とは何か?,2007


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