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コミュ力など存在しない【全文公開】


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以前からずっと言っていることなのだが、人と人のコミュニケーションに上手いも下手もない。つまり、コミュ力の高い低いなどないのだ。「いいや、そんなことはない」と感じる人も多いと思うが、これは事実である。

だけれども、世の中にはれっきとしてコミュニケーションによる人間関係構築が上手い人と下手な人が存在する。それは一体なんなのか。要するに、コミュニケーション「そのもの」とコミュニケーション「による人間関係の構築」の間には少しだけズレがあるのだ。

まず、コミュニケーションそのものの話から始めよう。これは上手いか下手かの問題ではなく、やるかやらないかの問題である。

たとえば、あなたが学校のクラスでも部活動やサークルその他社内で自分が所属する部門など何でもいいが、とある小規模なコミュニティ内部で普段あまり見かけない人の動向が気になっていたとする。そして、きょうたまたま当人を見かけたとする。そこで、「最近どうしてるの?」という声をかけるかかけないかは、やるかやらないかだけの問題であり、上手下手の問題ではない。声をかけさえすれば、最低限の情報は得られるし、その情報を得ることが当人との関係構築の「きっかけ」にはなる。

コミュニケーションをやるかやらないかの時点で、まずその後の人間関係構築の段階に移れるかどうかの線引きがされてしまう。これをやらない人が、思っているよりずっと多い。できないという人が多いが、できないのではない。やらないだけである。これをできないという理由付けを認定するなら、それができない方は、同時に一定のセラピーなどが必要なレベルの精神的な問題を抱えている人と認定せざるを得ない。そうなってくると話は別である。

しかし、恥ずかしくて声がかけられないとかなんだかんだ言っている人の大半は、土壇場のギリギリに追い込まれるとやむなく「やる」という選択肢を取れるようになるものである。土壇場のギリギリでやる方がさっさとやるよりも精神的に負荷がかかるにも関わらず、どうしてもそうなってしまう人が多い。経験を重ねるうちにさっさとやってしまった方が楽ということを人は学んでゆく。

一般に年齢を重ねたおっちゃんおばちゃんがコミュ力高めに思えるのは、話がうまいからではなくコミュニケーション行動に入るまでの心理障壁が下がっているからである。僕も若い頃は、好きな女の子とかならどんどん話しかけてはいたが、自分の中でどうでもいいと感じるような人間と話すことにはとてつもない心理障壁を感じていたし、逆に自分のことをわかってもらえて許されそうな場では甘えて自発的なコミュニケーション行動によるミスを犯すリスクを回避していた。

しかし、僕はこれが間違いであることを年齢を重ねた今、強く実感している。目の前にわずかでも関係のある人がいて、自発的なコミュニケーション行動に心理障壁を感じること、リスクを避けること、これはとてつもないリスクである。

自分以外の人間が絡んでいるアクション、シチュエーションを「暗黙」で捉えることはあまりにリスクが大きいということである。

「暗黙」は長年連れ添った二人以外に適用してはならない。

他者に対して何のコミュニケーション行動も取らなかった場合、相手に万が一ネガティブな印象を与えていた時にそれを自分が知るための手段がない。行動を起こしてミスを犯すことを恐れる人が多いが、ミスを犯した場合は、さらにコミュニケーションを重ねて追加してフォローすれば良い。それすら間違ったなら、さらにフォローすれば良い。確かに、経験値が少ない場合、フォローの仕方が下手くそというのはあるとは思う。しかし、悪気なく丁寧な態度でフォローを続けてそれが相手にウザがられることは基本的には、ない。もしそれをウザがる方がいたなら、それは今回趣旨としたシチュエーション範囲外の特殊事例なので、その対策はいまは割愛させていただく。機会があればいつかどこかで話したい。ともかく、「何もしない」というのは、全てを相手任せの運ゲーにすることに「同意する」ということである。

人生のすべての要素をコントロールすることなどできないし、コントロールできないから人生なのではあるのだが、コミュニケーションに関しては、行動すればするだけコントロール可能性は高まる。それは知っておいた方が良い。僕自身がそうだったのでよくわかるのだが、一般に頭が良いタイプの人は、想定を自分の頭の中だけで完結させてしまうので、インタラクティヴなコミュニケーションを併せ呑んで、他人の思考も含めて丸ごと自分の思考として線引きすることが苦手な方が多い。頭の良い人ほど、他人は他人と切り捨てる感覚で生きている。人間関係は、確かに認識、概念としては自分の頭の中にしか存在しないものではあるが、自己と他者の相互作用によって自己が外延されて構築されるものという問題意識を強く意識付けしておくことは、スムーズな人間関係構築のために必須な素養である。少なくとも僕は、ここまで生きてきて、断言できるレベルでそれを実感している。

私があの人をどう思っているか。それは問題ではない。

私があの人をどう思い、あの人が私をどう思い、二人は二人をどう思っているのか。

その意識があるのはもちろん、自分の頭の中ではあるのだが、そういう意識を持つことが、そういう意識を「持たない」人に対しても結果的に大きくポジティブに作用する。

繰り返すが、コミュニケーションは「やり得」なのである。僕は何でもかんでも思い立ったら後先考えず行動に移す短絡性には常に否定的な立場を示してきたが、コミュニケーションというのはプランを実行に移すこととは異なる。コミュニケーションというのは、それそのものがその瞬間の全てであり、それが後にどう繋がるかというプランを深く計算してやるようなことではない。これも断言する。

よく、計算高い人というのがいて、それはそれでなんだかんだポジティブにもネガティブにもネタにされると思うが、正直そんな浅い計算はさらに処理能力の高い人とぶつかると全部見抜かれてズタズタにされる。計算高いコミュニケーションというのは、対おバカさん限定でマウントを取って人生を生きるという極めて限定的な手段である。そうしたいというなら、僕は止めることはできないが、それをやっている自分は基本的にはそれよりも能力の高い人に対して圧倒的に下位に位置づけられるということは、はっきりと指摘しておく。

計算などするよりも、シンプルなコミュニケーションをただひたすら積み重ねることこそが、結果的に最も健全な人間関係構築に寄与する。そこまで言ってもなお、これは実感を持たない限り実行できない人が多いだろうということも、もちろん僕は予測している。

それも僕自身の経験論からである。僕は自身で壁にぶち当たって自分なりの試行錯誤の中でコミュニケーションのやり方を修正してきたからこそ、その意味を強く実感しているが、頭でっかちな人がこうしてただ理屈だけを聞かされても、やはりそれを身体を伴うコミュニケーション行動に変換することは難しかろうと思う。

Social Mediaでの一方的なつぶやきではなく、インタラクティブであることを前提としたコミュニケーションは、やればやるだけ皆さんが「コミュ力」と思っている力をどんどん底上げする。

そして、それは「コミュ力」ではない。

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