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「女装男子」から見る女の記号性について

先日、AV監督の二村ヒトシさんにお誘いいただき「女装と女子会」に参加してきた。

https://twitter.com/salon_RAAR/status/988607065701560320
これは女装することが好きな男性=女装男子と、女装男子のことが好きな女性が出会うためのパーティーである。
参加者は総勢110名。パートナーを見つけたい、女装男子の友達がほしい、さまざまな動機のもと男女(外見的にはみんな女性)が集まり、ドリンクを飲みながら会話を楽しむ。

女装男子と女性、それぞれ各4~5名ほどのグループになって指定のテーブルにつき、一定の時間おしゃべりしてから女装男子のグループがテーブルを移動していくという、一般的なお見合いパーティーの回転形式をとって会は進行した。
私はオブザーバー(?)的立ち位置でパーティーの様子を見学していたのだが、まず気づいたのは、女装男子のメイクやファッションの多様さだった。
タイトなトップスにワイドパンツを合わせ、華奢さを際だたせつつクールな印象に装う人。
巻き髪にフレアのミニワンピを纏って、ピンクベースのメイクでかわいらしさを演出する人。
シンプルな黒スーツの中にフリルシャツでアクセントを持たせ、黒髪ロングのウィッグに切れ目がちのメイクで和風の美を表現する人。
ほかにも甘ロリ系のファッションや、ロングスカートとカーディガンの控えめファッションなど、みんな思い思いの姿を楽しんでいた。

さらに興味深いことに、ファッションによって、その人のしぐさもちがうのだ。
クールなファッションの人はさばけた話し方だし、かわいらしいファッションの人はしぐさもおっとりしていておしとやか。
セクシーな服を纏った人に、うっとりするほど妖艶な表情でほほえまれると、何だかどきどきしてしまった。

お見合い形式での会話が終わったあとは、二村さんや他のゲストの方に混じり、少しだけトークもさせていただいた。
かなり直接的な性行為の話もたくさんあったのだけど(私は男性の乳首についてばかり話していた)、トークを熱心に聞いている参加者の神妙な表情が印象的で、全体的にとても収穫の多い会だった。

思うに「女装」とは、普段の自分とちがうペルソナを得ることにほかならない。
女装している時は、男性として社会から求められているものを一旦脱ぎ、自分のなりたい素敵な女性のペルソナを纏って、自分の好きなように振る舞うことができる。
それは裏を返せば、男性の得られる心地よいペルソナが少ないということでもあり、女性のペルソナが幅広いということでもある。

話は変わるが、私は椎名林檎というアーティストが好きだ。
12歳の頃、「勝訴ストリップ」というアルバムを聴いて衝撃が走った。
音楽としてのかっこよさに痺れたのはもちろん、椎名林檎の声色が、あまりに変わるからだ。
少女のように幼気な声が旋律をなぞったかと思えば、ほんの1小節後には場末の立ちんぼの声で歌っている。
何だこれは。どんな人が歌ってるんだろう。自宅のPCで検索すると、出てくる写真はみんな椎名林檎なのに、ファッションもメイクも雰囲気も、みんなちがった。
花に囲まれて可憐に笑う写真もあれば、豪快に胸の谷間を見せて澄ました顔をしている写真も、赤いレザースーツにダウナーなメイクでこちらを睨みつける写真もある。
思春期にさしかかり、議論好きで個人主義な性格と社会から求められる「女性らしさ」との狭間で懊悩する女にとって、それは猛烈にかっこよく思えた。
こんなふうに姿を変え、相手に一定のイメージを持たせない女性がいるのだという強烈な事実が、ただかっこよかったのだ。

大学生の頃、出版社のある編集部でバイトをしていたのだが、私があまりにころころと外見を変えるせいで同一人物だと判別しづらく、別フロアで働く男性が「あそこの編集部はずいぶんたくさんの女性を採用するんだな」と勘違いしていたことがあった。
それくらい私が頻繁に外見を変えていたのは、きっと椎名林檎の影響を受けていたからなのだと思う。
そして行動の根本にあったのは、イメージを固定化され、安易に“本当の自分”といったものを他人に規定されたくないという気持ちだった。

昔から非常に理屈っぽくシニカルな物言いが好きな私は、中身に反して非常に“女の子らしい”外見を持って生まれた。特に制服を着ていた高校生の頃は、「おしとやかそう」「清楚っぽい」というイメージで男性に近づかれ、理不尽に失望されるという経験が非常に多かった。

「芙美って、外見に似合わずきついこと言うんだね」
「俺の知ってる芙美はそんな子じゃない」

これらは、実際に私が思春期の頃から男性に言われてきた言葉である。
悪気を持たず投げつけられた言葉に、私は戸惑い、そして大いに怒りを抱えてきた。
お前のイメージした私に、私を閉じこめるな。
ふつふつと沸いてくる怒りをぶつける場所もなく、相手に与えるイメージを変え続けることによって、私は私を規定しようとする視線からずっと逃れてきた。
ギャルっぽいパンツにロングブーツを履けば所作も少し乱暴になり、シンプルでタイトなワンピースに身を包めば所作も自然とたおやかになる。
そうやって様々な“女の記号”を纏い、定型のイメージを与えないことによって、少ない情報でたやすく人の内面まで理解した気になる男性を攪乱し、イメージを押しつけるという無自覚な暴力をかわしてきた。

それは、きっと私が女だったからできたことなのだ。
男よりもイメージが多様で、それこそ“聖女”から“悪女”まで好き勝手な記号を押しつけられやすい女だったからこそ、身につける記号を絶えず変えることができたのだ。

バリエーション豊富な女装を楽しむ彼女たちを見ながら、私はそんなことを思い出していた。
女性には、着脱可能なイメージがたくさんある。
こと現代においては、先人たちの忍耐と努力と情熱によってさまざまなファッションが用意され、フェミニンにもマニッシュにも装うことができる。
生き方だって、家庭に入ろうが仕事に熱中しようが、パートナーを作ろうが作るまいが、少しずつだが自由になりつつある。横槍を入れたがる人は無数にいるけれど、どの生き方を選んでも自分としての楽しみは見つけられる。

それに比べれば、男性のバリエーションはとても少ない。
トラッドからストリートまで、ファッションのジャンルはさまざまあるが、それらは結局洗練された「男らしさ」、やんちゃな「男らしさ」を強調するものであり、「男らしさ」自体がずいぶんと固定化されている。
生き方においても、主夫は「ヒモ」と揶揄され、経験人数の多さやホモソーシャルな会話が社会的に認められた「男らしさ」を得るための手段であり、それはただちに男性のアイデンティティと直結する。

男性学が注目され、『男がつらいよ』『男はなぜこんなに苦しいのか』といった“男のしんどさ”について語られた書籍が多く出版されるのは、男性だって固定化されたイメージをつらく思っているということの証左なのではないか。
そんな息苦しい環境から逃れ、男性たちがつかのま自由なペルソナを得る行為が、「女装」なのかもしれない。

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