完全に所有される奴隷は幸福だよねっていう

※2022年の奥歯忌に書いた文章です。

妻子持ちで、社会的な地位を確立していて、自分が所属する組織への忠誠と帰属を誇りにしているような成人男性と話すと「うわ~~ん!!わたぴはそうはなれないだろうし、あなたと同じものを良いと思える日は来ないと思うぽよ~~!!」って気分になってたのですが程度が違うだけでわたしも同じような気がしてきました。

わたしとしても、絶対的な信頼のおけるご主人様に完全に所有される奴隷が幸福であることは理解できていて、そうした幸福に憧れてそこに縋って安住したくなる気持ちは分かるのです。
たぶん彼らは「このご主人様になら所有されてもいいや」と思えるような、自らが所有されるに足るご主人様を見つけたわけですね。ご主人様といった言い方だと人格を備えた個人のように聞こえますが、象徴的な意味としては「自分のことを価値づけたり意味づけたりしてくれる十分な信頼をおける外部の存在」ぐらいの意味です。それは個人じゃなくても組織であってもよいわけです。

わたしが求めたくなるような、ありとあらゆる懐疑をぶつけても一切揺るがなくて全幅の信頼を永遠に抱き続けることが出来ると確信できるような、そんな過剰に頑健なご主人様でなくて良いわけですね。もちろんそんな過剰なご主人様を想定して求めようとする姿勢には無理があることは千も承知であって、暫定的な態度としては尋め行く者であるべきだと思ってます。

「尋め行く者」について自分なりにしっくりくる解釈を比喩表現で語ると「無限遠点に神(=ご主人様)と呼ばれるような存在を措定して、有限の時間内では辿り着くことが無いと知りつつもその方向に歩み続けること。尋め行くことをやめないこと。」といった表現になる。正しい方向はあるのだけれど、その正しい方向にどれだけ進んでも目的地には絶対に辿り着けない、のような。歩みを続けるうちに終着地だと勘違いさせる何か(高橋たか子がキリスト教に安住したように)が現れたりするのだけど、正解だと思えるものに対しては視点を変えて、批判して、次の場所への足場にしなければいけない。これについては「哲学の終わりは本当の終わりじゃなくてその人間の素質が尽きるところだ」って言葉が全てです。

「神」のくれる幸福をかいくぐって、どこまで行けるかを知りたい。
— 八本脚の蝶 2002年5月30日(木)

『八本脚の蝶』で綴られているような、尋め行く道程から見える景色を垣間見せてくれる文章が好きです。


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