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それは誇りを取り戻す切欠となるべく紡がれた音楽 ーAuramorte『屋根裏童話』解釈記事 ー

Auramorteさんの屋根裏童話についての解釈記事です。歌詞を詩として読みこんだ際の解釈です。音楽はリンク先から全編視聴できます。刺さる人には出だしの数秒で刺さると思います。不穏を煽る感じのピアノのトリルが曲の世界観に引き込む導入としてバッチリです。全体的な曲調はギターとドラムがメインの激しい音楽ですが、要所に聞こえるアコーディオンが歪で独特の個性を発揮しています。

ワタクシ音楽については疎いのでボロが出る前に早速本題に入ります。

■『屋根裏童話』解釈概要

屋根裏童話に関しては公式で歌詞が公開されているのでこちらを参考にします。まず「屋根裏童話」を貫いているのは以下の二つのテーマだと感じました。

①人間の集団に承認されることの外に自分の矜持や信念を置くこと
②観念と空想の世界に浸るのではなく、現実に対峙する事を旨とすること


これらに関してAuramorteさんのPhilosophyを引用しながら解説してみます。まず①についてですが、屋根裏童話で描かれているテーマの一つは「持たざる者」と「集団主義的な思想」の対立構造に思えます。「持たざる者」といった耳慣れない言葉ですが、これは以下のPhilosophyの一部から引用した言葉です。

Gothとは何か。
白より黒、明より暗、動より静、朝より夜、生より死、変化より永久。
――象徴的なのは、負の方向へと向かっていく力であり、華やかさの一切を棄てた「持たざる者」が、それらと引き換えに身に着けた毅然たる誇り高さである。

この「持たざる者」について少し自分なりの解釈を。何を”持たざる”かは、明や生とった無条件で"善い"とされているモノ達への信仰です。「持たざる者」とは、そうした華やかな物たちを無批判に肯定出来ず、問い質すことを止めない者。「集団に宿っている思考」を「自分の思考」とは決して取り違えない者。そうした独立した思索の果てに毅然とした誇り高さを身に着けた者。と、こんな感じで解釈してます。

Philosophyは次のように続きます。

一方で、華やかな文化に寄り添う形で消費されるそれが存在しているのも事実であり、それは誇り高い者の居場所を、尊厳を奪うものであることは否めない。本来、これは軽薄な集団主義によって消費されるべきものではない。

まず確認しておきたい事として「消費する」のは集団主義の側で「消費される」のは持たざる者の側です。そして消費の意味に関しては「尊厳を備えた個として対等に扱うことは無いが、ワタシタチに奇抜さを提供する見世物としては存在を認めてやってもいい」のような態度だと解釈してます。あくまで集団の側が主流のスタンダードである前提の下で"認めてあげる"のような傲慢さが透けて見えるような態度です。

そしてPhilosophyの最後は以下の一文で締めくくられています。この宣言文は端的にとても格好いい。

ならば、「持たざる者」の居場所となるべく、誇りを取り戻す切欠となるべく、音を紡ぐ存在でありたい。

屋根裏童話で登場する少女は「持たざる者」の象徴として描かれているように思えます。本記事では誇りを失い傷ついた持たざる者が②のような態度、つまり観念と空想の世界に浸るのではなく現実と対峙する態度、を獲得するまでを描いた詩として屋根裏童話を解釈しました。

以下では歌詞を抜き出しつつ細かく見ていきます。

・一番目

涙で塗り固めたような整う顔は笑顔を知らずに
糸に絡め囚われた蝶が悟る絶望に似ていて

まだ明示的に登場していないが、少女(=持たざる者)についての描写。誇りを奪われ傷つき絶望している状態の描写。

ハッピーエンドを誰もが忘れ、モノクロームの夜を繰り返す
数多の人の知恵は虚しく、グランギニョルはもう、止められない。

こちらは集団の側の描写。「モノクローム」は単調さの比喩。「数多の人の知恵」は個人ではなく集団に宿っている思考のこと。これが虚しいのは発言する人間が違うだけで発言する事は皆同じであるから。すると「目指されるべきハッピーエンドに進んでいくのではなく、集団に宿っている思考を単調に繰り返すだけが実態と化すこと。その先はもちろん惨劇<グランギニョル>しかない」といったように解釈できる。

さかしまの箱庭で、陽だまりを探し歩く
置き去られた孤独の果て、泣いているのはだあれ?

再び少女の側の描写。わざわざ「さかしま」なんて耳慣れない言葉を使ってるの当然意味があるはずかと。これがJ.Kユイスマンスの小説の『さかしま』であるのならば「さかしまの箱庭」は「俗世と乖離して趣味と感覚の洗練に浸る場所」と解釈できます。そしてこのイメージはそのまま屋根裏のイメージに当てはまります。 一般的なモチーフとしての「屋根裏」といった場所は「一人で黙々と何かに打ち込む場」のようなイメージがあります。これは自らに真摯に向き合い続け何かを為さんとする印象の反面で、他者の視線を全く意識せず独りよがりに陥る危険性も暗示している印象を受けます。

少女の時は止まり、永遠はイデアとなる
屋根裏<グルニエ>には「夢にも見たおとぎの国」なんて、ないのに。

実世界と隔離された狭い世界(=屋根裏)で幼児的な全能感に浸ること。
イデアは哲学的悪態として。つまり、現実に根ざさないで理想的な観念の世界で遊ぶ態度として使われている。そうした態度を続けたところで「夢にも見たおとぎの国」(=真の意味での救済)にたどり着けはしない。

一番目の歌詞に関しては持たざる者たる少女が現実に絶望し、現実と乖離した屋根裏<グルニエ>に救済を求めるような情景が描かれているように見えます。二番目ではこれをひっくり返していきます。

・二番目

まず二番目の出だしです。①のテーマである「人間の集団に承認されることの外に自分の矜持や信念を置くこと」が強く表れているのはこの部分です。

無音の銃声が今日もまた誰かを撃ち殺したとして、
それを「天使」と呼ぶならば、僕らは憎むべき「悪魔」となろう。

無音の銃声:郷に入って郷に従うことを強要すること。明文化されていない暗黙の了解への服従を強いること。自らを正当化する根拠が”多数派に属している事”でしかなく、そうした局所的な規範を受け入れて当然だとする態度。自ら問い質すことを放棄した集団主義的な態度だと解釈しています。

「無音」が郷の規範が明文化されていないこと、懐疑の態度を取って声をあげること自体が禁忌とされていることの象徴かなと。すると「無音の銃声が誰かを撃ち殺す」とは集団主義的な規範が個人の信念に対して屈服を強いること。天使とは、倫理や道徳が郷に入って郷に従う程度のことだと信じている者たち。集団主義に毒され、自らの信念を持たず、周囲の人間に承認されることを正しさの基準とする者たち。
彼らが天使(=善)の側であるのは、自らの行為を承認してくれる他者が周りにたくさんいるから。悪魔とは、天使の逆の属性で考えれば、集団の規範とは独立に自らの信念を確立している存在のこと。こうした性質が悪の側であるのは、集団主義者から見れば彼らの唯一の善の基準「郷に入って郷に従う」が出来ないから。

窮屈な空は口を開かず石の天井を吊り下げ迫る
軋む音を立て装置が動く 熟れた果実を添えたテアトルで

この部分は一番の歌詞と対応させて解釈します。対応する歌詞の部分はグランギニョルの部分です。一行目の情景描写としては「暗雲が低く立ち込めて迫ってくる」イメージなので何か良くない事が起きそうな不穏な印象を受けます。グランギニョルを予感させますね。そして二行目は倒置されていますが「テアトル(=劇場)で装置が動く」がメインの情景です。何の装置であるかについては舞台の幕を挙げる装置だと解釈します。すると以上からこの部分は「グランギニョルの幕が今まさに上がる!」といった風に解釈できます。「熟れた果実」のフレーズも爛熟して停滞して濁り切った思考の象徴のようにも見えてきますね。

祈る指を解いてナイフを握るのならば、孤独に膿むその手を取ろう。ロザリオと引き換えに。

私的にはこの部分の歌詞が一番好みです。絶望や不幸を自己憐憫と結びつけて甘美な被害者意識に浸るような態度を明確に否定してそうなあたりが特に良いです。解釈としては、「祈ること」は実世界とは別の世界に想いを馳せてそこでの救済を乞うこと。現実に対峙し続けることが出来ず、安易で楽な救済を乞うような態度。「ナイフを握る」とは実世界への干渉。具体的に手を動かして現実と対峙する態度への移行。この部分で一番目で歌われていたような「さかしまの箱庭」に籠った自閉的な態度を否定しています。

“童話の始まりこそ悪夢の総て”と言うなら
主の居ない屋根裏<グルニエ>など、炎と消えてしまえばいい。

自己満足的な箱庭からの脱却。この部分は一番の「少女の時は止まり、永遠はイデアとなる」の部分の逆ですね。「童話」は「イデア」の言い換えとして。つまり現実に根ざさない理想的な観念の世界の比喩として解釈します。屋根裏に関しても一番の解釈を引き継ぎます。すると「童話の始まりは悪夢の総てであり屋根裏は炎と消えてしまえばいい」といった宣言から②のテーマである「観念と空想の世界に浸るのではなく、現実に対峙する事を旨とすること」が見えてきます。

崩れゆく幻想がやがて僕を象って
腐り落ちる箱庭から逃げ出す道を示す
少女の時は動き、始まりはイリヤとなる

――それは、屋根裏<グルニエ>から産まれ落ちた、世界を侵す物語。

まずは一行目の「崩れ行く幻想」から解釈していきます。前節で「屋根裏<グルニエ>など、炎と消えてしまえばいい」とあったので、このシーンで今まさに燃えているのは屋根裏(=箱庭)です。屋根裏と同時に崩壊しているため「崩れゆく幻想」とは屋根裏と関係がありそうです。しかし屋根裏自体ではありえませんね。また「幻想」ということで物理的な物ではなく観念的な物となります。すると「崩れ行く幻想」は「屋根裏で涵養して培ってきた思索や意志」と解釈できそうです。それらが「逃げ出す道を示す」わけです。前節を踏まえれば逃げ出した先は現実であり実世界ですね。また最後の「イリヤ」は仏語でIl y a 英語にするとThere is  専門用語的には「存在そのもの」ぐらいの意味です。
以上を踏まえて最終節の3行を解釈すると「屋根裏で涵養して培ってきた思索や意志が信念や誇りに変わり、それらを携えて実世界に対峙し立ち向かう」といった転換のシーンとして解釈できます。
最後の一行も同様に解釈できます。自ら練りあげて洗練させた思索で現実世界を侵食し染め上げるわけです。うーん。かっこいい。

■終わりに

私によって上記のように解釈された『屋根裏童話』は確実に私を魅了しました。生き様に関しての宣誓文のような言葉を詩にして音楽に乗せて歌い上げるのは格好いいなァと思います。思想や精神といった自分の内面に近しいものを作品といった形で世に出すというのは創作を行う人間の特権ですね。

あとは本記事が珍説奇説のトンデモ解釈になっていなければよいのですががガガガ。(照れ隠しにフザけないと気が済まないタイプ!!)

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