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奇蹟、あるいは感情についての冷めた所感ー叙景集475

自分の中での叙景集熱が高まっているので気に入っているものを紹介。
自分がどれだけ忘れっぽい人間であるかを忘れないでいるための優れた詩編。

大きな橋に並行する水道橋に付属した、ひたすら一直線の金属の歩道で立ち止まる。
両岸に公園をしたがえた広い川は、霞むほど遠くまで視界を吸い込む。
雲の端がきらめき、きらめきを増し、雲の中から太陽が這い出してくる。遠景からこちらへ向かって、駈けるように明るみが押し寄せてくる。陽射しの波にさらわれるように、マガモの群れが飛び立ち、その腹を雲とする雨が、川筋を走る。川面が乱れ、光の縮緬皺が躍る。
なにもかもが繋がっているという突然の認識が訪れる。ほとんどいわれのない幸福感が身中を満たす。
橋の上に立ち尽くしているのに、世界がぼくを中心に流れるのを感じる。ぐるぐる回って止まった直後のめまいのように。
いまこのときのために生きてきた気がする。
神はいる、と、確信する。

以上が前半部分。とても優れた情景描写。表現されている光景が頭に浮かべば容易に同じような認識に至ることが出来る。そして以下が後半部分。

しばしその幸福感に浸っているうち、小腹が空いていることに気付く。
鼻をかんだ後のちり紙を畳むように、ぼくはその奇蹟をていねいにやっつに畳んで、橋の上からぷいと捨てる。だいじょうぶ、偉大な奇蹟だが、川を汚すほどに大きくはない。
さきほどのよい気分の残滓を、反芻しながら帰る。帰宅するまでに一編の詩が生まれる。と言うか一編しか生まれなかったが。
こんなふうに、だいたい週に一度の割で、健康のために、信仰心までの短い道のりを散歩している。自宅近辺には神がいないので。

叙景集475

どうだろうかこの落差。あれほど偉大だと思えた奇蹟もすっかり萎んでしまって一瞬で日常に帰還している。「神はいると確信するほどの奇蹟」だったものが「さきほどのよい気分」程度にまで格下げされている。形而上学的地位の高みにいたはずの経験が、フツーの日常のちょっとした幸運程度の経験に成り下がっている。「ある瞬間における自分の感情」程度のモノがどれほど頼りなくて移ろいやすいかについての巧みな表現だと思う。
日常に帰還するときの切欠が「小腹が空いていることに気付く」ことであるのも示唆的だ。どれほど精神的に高尚な経験の最中であっても、肉体的な欲求によってそれが中断されてしまう。肉体に対する精神の優位性なんて幻想であることの描写。"奇蹟"だった経験も最後の行では「健康のため」といった俗で日常的な目的のためだった事になっている。

私はとても忘れやすい。「ずっと変わらないと思えた感情」や「絶対に成し遂げると決心した決意」もすっかり萎んでしまった。その感情の最中にあった瞬間での鮮明さや猛々しさなんて今は全然感じない。「決心したことすら忘れた決心」なんてのもたぶんある。もちろん思い出せないけど。そもそも感情のほとんどは一晩寝ただけで忘れてしまう。
無邪気に永遠を信じたい気持ちがある。しかしこんな感情も「脳は一貫性や整合性を好む性質がある」ことの帰結程度しかないと思う。そこに私の意志が介在した結果なのか、「熱い部屋にいると汗をかく」程度の人間の自然史に属する事実なのか判別できない。そして後者だと思っている。
「時間軸上の特定の閉区間の内でだけ私の感情によって価値づけられている」といった表現を思いついた。これぐらい「私」と「現在」に依存した表現なら信じられる。なんせ私は忘れやすいのだ。

忘れやすくて移ろいやすい私であるが、このように対象から一歩引いてメタ的に観察者として振舞いたくなる性質は比較的長く続いているかもしれない。現在の私はこうした性質をあまり評価していないけども。

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