私の精神変遷詩3(分析哲学/本論)

さてさて前回は分析哲学的要素がほとんど無かったけど今回はもう少し踏み込んでみるよ。

■客観的な主張と主観的な主張の線引き

最初のお題は「客観的な主張と主観的な主張の線引き」についてだよ。まずはデュエム-クワイン・テーゼを紹介するよ。(名前カッコイイよね!)

始めに問題提起として「ある主張が偽として棄却されるのっていつだろうか?」を考えてみるよ。

P:部屋の温度が20度である 

といった簡単な命題について考えよう。
これが真だとするのは。以下の場合だとするよ。(本当はもっとPを真とするための仮説があるはずけど、ここでは簡略化しているよ。)

P1:温度計は20度を指している
P2:温度計は壊れていない
P3:観測者は正しく温度計を読み取ることができる

つまり「(P1 かつ P2 かつ P3 ) → P」といった判断をしているね。さて、いま何かしらの別の手段で「部屋の温度が25度である」ことが分かったとしよう。つまりPが間違っていたということなので、P1,P2,P3のどれかが間違いだね。 この場合、多くの人はP2:「温度計が壊れていない」を否定するよね。でも厳密な意味ではどの命題を棄却するかに根拠はなく、その選択は恣意的であるってする主張がデュエム-クワイン・テーゼだよ。もっと過激なことを主張すれば、棄却されるのは 

「(P1 かつ P2) ならば (Pが真) 」の場合に「 (Pが偽)ならば(P1またはP2が偽)」

といった論理学の命題であってもいいはずだよ。

さて、このデュエム-クワイン・テーゼがどれくらいの威力かというと、「ある命題が真である」ことを人間に依存しない実在の反映から、人間に依存した信念の束のようなものに振り切らせるくらい強かった。ここで信念というのは「ある人間が真だと見なしている命題」ぐらいの意味で使ってるよ。このあたりはクワインのとても有名な論文『経験主義の二つのドグマ』の内容だよ。この論文の中で提出された「ホーリズム(Wholism)」といった立場を説明してみるよ。”知識”というものがどういうものであるかについて、まずは引用から。

周縁でだけ経験(=世界)とぶつかる人工の織物。周縁でのコンフリクトが場の内部を調整し、システム全体に真理値が再配分される。ある文が真であるとは「その文が全体として上手く働いている信念・知識のシステム構成に寄与していること」
大庭健『はじめての分析哲学』

知識というか「ある人間が真だと見なしている命題全体」がどのようなものであるかについてクワインは「周縁でだけ経験(=世界)とぶつかる人工の織物」といった比喩を用いているよ。これの意味について解説してみるね。まずは”周縁”についてだけど、これは確信の度合いが相対的に低い命題ぐらいの意味かなぁ。先のデュエム-クワイン・テーゼで上げた例を引き継ぐと「温度計が壊れていない」と「観測者は温度計を正しく読み取れる」だと明らかに後者の方が確信できる度合いは強いよね。もっと言うと「観測者は温度計を正しく読み取れる」と「論理学の命題」だと後者の方が確信の度合いは強い。クワインは信念全体を確信の度合いで順序づけて、確信の度合いが低いものを周縁部、強いものを内部に位置するものとしているって読み取ればいいかな。

次に「周縁でのコンフリクトが場の内部を調整し、システム全体に真理値が再配分される。」だけど、ここでも先のデュエム-クワイン・テーゼの例を引き継ぐよ。”周縁でのコンフリクト”ってのは「温度計が20度を指している」vs「(他の方法で測った)部屋の温度が25度」って状況だね。
この場合に”場の内部を調整し、システム全体に真理値が再配分される。”ってのは「温度計が壊れていない」って主張を棄却することを意味してるかな。重要なのは証拠さえ十分であれば、より内部に位置する信念(=より確信の度合いが強い命題)の方が棄却されうるってところだね。例えば温度計の観測者についての信頼がなくなるような命題がたくさん出てくれば「観測者は温度計を正しく読み取れる」を棄却するだろうし、何か論理学的な重大事件が起きた場合には推論の形式自体が間違っていたと判断してもいい。
そういった意味で「世界の側の確定した構造に言及している客観的な命題」と「人間がそこに読み取っているだけの主観的な命題」の明確な線引きが不可能であることを主張したのがこの比喩の本質かなぁ。

はてさて、この説のお題は「客観的な主張と主観的な主張の線引き」だったけど結論は「線引きなんかない。客観と主観の間にあるのは確信の度合いに応じたとグラデーションだ」ってところだね。

■確信の度合いが強い命題ってどんな命題?

上で挙げたクワインの主張が理解できたら、次に「ある命題の確信の度合いの強さって何から生じるの?」に答えていくよ。以下の議論の下敷きになっているのはウィトゲンシュタイン(後期)だよ。答えから言うと「生活の形式」だよ。

以下では確信の度合いが強い命題のことを「規則」と呼ぶよ。「規則」がどこから生まれるのかに関してだけど、世界の側の確定した仕組みが「規則」として我々に発見されることではなく、「規則に従う」といった原始的な実践を我々が行なっていることが出発地点なんだ。うーん、なんでこんな引っくり返った説を主張したくなるか分からないよね?これに対しての答えの一つとしては、前者は「人間に依存しない世界の側の規則」と存在の怪しいものを仮定してるんだけど、後者はそうした規則を仮定していない分だけ厳密なんだ。これも伝わらないかなァ。こうした分かり得なさに関して再びクワインを持ち出せば「規則」が実在しているといった立場の方が慣れ親しんだ考え方、つまり知識の織物の内側に位置する命題である。そのため、それを否定する場合は知識の織物全体に大規模な修正が必要となる。そうしたコストを払うくらいなら、それを否定する立場をとりたくなるかなァ。

少しお話が外れてしまったけど、ここでは「ある命題の確信の度合いは生活形式に依存する」といった主張を説明するのが目的だよ。まず普段わたしたちはどのように物事を判断しているか考えてみようか。例として「望遠鏡をのぞいて西の空に金星を発見した」といった状況を考えるよ。これは「①望遠鏡は遠くにあるものを観察できる道具である」ことを知っている人が「②西の空に金星を発見する」といった状況だね。つまりこの人にとっては①が前提で②が結論になっているよ。これまでの表現を踏襲するのであれば、確信の度合いが強い①の主張を用いて、確信の度合いが弱い②の主張の信頼性を上げようとしている、と言える。
さて今度は地球にやってきた金星人が「望遠鏡をのぞいて西の空に金星を発見した」と言った状況を考えるよ。ただし金星人は金星ぱわーでいつでも確実に金星の位置が分かるとするよ。もう既に何が言いたいか分かるかな?
さっきの番号を引き継ぐと金星人にとっては②が前提で①が結論になってるんだ。つまり、金星人ば自分が金星があると確信している方向に望遠鏡を向けることで、望遠鏡が遠くにあるものを観察できる道具であることを発見しているんだ。

何かを述べるときは (前提)→(結論) といった述べ方を習ったと思うけど、これの肝の部分というのは「確信の度合いが強い前提を元に、あまり確信していない主張の信頼度を上げる」って感じだよね。さっきの金星人の例で説明したかったことは「複数の主張を確信の度合いで並び変えた場合、生活形式が異なっていればその順序は一致しない」ってことだよ。
金星人なんて過激で極端な例をあげたけど、人間でも同じことはあり得るよね。例えば「勉強は女々しい男がする行為」とか「馬鹿してきた相手は血まみれになるまで殴るのが男」といった主張にずっと慣れ親しんで育ってきたら世間的に想定されているフツーの人とは全然違う価値観の人間が完成するよね。
このあたりまでくると”規範”とか”論理”とかの線引きが揺らいでくるのがわかるかな。論理学の命題とされているものであっても「同じような現象が何度も観測された結果、それ以外のあり方では想像が出来なくなってしまっただけの命題」に見えてくるよ。例えば「P かつ (PならばQ) の場合に Q」といった推論(MP)を考えるよ。具体的な現象をどんどん代入してみると「(雨が降った) かつ(雨が降れば地面が濡れている)より(地面が濡れている)」「(歩いた) かつ(歩けばおなかがすく)より(おなかがすく)」「(部屋が暑い) かつ(部屋が暑ければ汗をかく)より(汗をかく)」・・・とまぁこんな感じの経験が積み重なって推論(MP)は世界の側の確定した構造を記述していると信じるようになる。繰り返しだけど念のため注意しておくと、ここで述べたかったのは一般に論理学の命題と呼ばれるものと、そうでない命題は質的に異なる領域に属するといったわけではない事までだよ。確信の度合いとして両者が同じなわけでは決してないよ。論理学の命題を疑うのに十分な現象に出会った場合、論理学の命題を棄却してもよいとは主張したいけど、何かを主張する場合の基礎としての論理学は十分信頼しているよ。

■慈善の原理

ここまで来たら僕が分析哲学の概念で一番好きな概念が紹介できる。「慈善の原理 ( principle of charity)」っていうんだ。どんな原理かというと「相手の発言や主張を、自分に可能な範囲で最大限好意的で筋の通ったものだと解釈しよう」といった態度をとろうといった原理だよ。僕は何か主張の根拠となるようなものについて言及したい場合に「論理」って言葉を使わずに「規範」って言葉を使うけど、これは慈善の原理を意識しているからだよ。これについて説明してみるね。まず言葉の定義だけど、以下では共同体って言葉を①人間の集団②その集団の多くの構成員が真とみなす主張の集合、の複合物の意味で使うよ。言葉のニュアンスなんだけど「論理」って言葉だと共同体のとり方によらずに正しいとされる主張を指しているように聞こえない?つまり人類全体の集団の中で正しいとされている主張、ぐらい強いことを述べようとしているように感じるんだ。この場合に他者と対話しようとする時にどのような態度になると思う?「説得」か「説明」だよね。少なくとも、自分が正しいことを確信している人間は異なる意見に対して自説を決して撤回しないよね。価値判断が根底にあるようなテーマに関してこうした態度は問題だよね。一方で「規範」って言葉だと”正しさ”が共同体依存であるといったニュアンスが出る感じがしないかな。すると相手の属する集団の価値体系を理解した上で自説を組み立てようって気になるよね。これって「慈善の原理 ( principle of charity)」そのものだよね。

■私の精神

さてさてクワインにぶつかったあたりは客観期からの変遷の時期に当たる。
客観期の私としては原初の哲学者が追い求めたような「事実の如何に先行して必然的に真な命題」しか本当に意味があるものだと思っていなかった。普遍的で抽象的なものしか好きではなかった。主観とか感情とか人間的でべとべとしたものを蛇蛙のごとく嫌っていた。正しさが人間に依存しているものが全て嫌いだった。そんなものは本質ではないマヤカシだと思っていた。そんな中でクワインの『経験主義の二つのドグマ』に出会った。これまで自分が信じていたもと自分が嫌っていたものの境界が曖昧であることを理解させられた。クワインの比喩をここでも使えば、自分の内部に位置している信念に変更があった結果、システム構成(=自分の信念体系)に大規模な修正が加わったということになる。価値観の大幅な転換期にある人間の精神はものすごく不安定だった。ものすごく躁だったり鬱だったりを繰り返していた気がする。

ところで「慈善の原理」なんて現実的には無力である小話を一つ。
たまたま同じ時期に自分が所属していた集団内で問題が発生していた。「崇高な理念だけ掲げて実際に手を動かさない人間」と「理念なんて信じてないけど実務を担当する人間」に別れていた。私は後者に属していた。結論の意味での崇高な理念なんて信じてないし、話すと弱いため押し切られやすかったからである。前者に属していた人間は「自分たちの理念に共感できない人間はこの集団から除外されてしかるべき」といった立場を表明していた。彼らの主張に整合性があるなら「何もしてない君たちはこの集団から除外されるべきなのでは?」と思ったけど、ここに大きな勘違いがある。当時の私が気づいていなかったポイントで重要なのは、理念に沿って行動することは全く求められていなかったことである。彼らの”理念”の使われ方は理念を表明することによりそれを仲間同士で承認しあうことにあったように思う。つまり①何かカッコイイ事を言う→②それを別の人が「いい意見だと思います」って言ってあげる→③カッコイイ事を言った人が満たされる。→④オワリ。といった使われ方である。たぶん理念の実現なんてどうでもよかったのだ。そのため私が信じてもいないような理念をちゃんと理解して、それに沿った態度をとるように説得するような文章を投げかけても無意味だったのだ。私としては「慈善の原理」を発揮するいい練習にはなったと思う。少なくとも相手方から「いい意見だと思います」といった旨の発言を引き出せたので理念の理解は正しかった。(具体的な行動の提起もしたけどそっちは全部無視された。)
このお話の教訓としては「何を言っているかは重要じゃない。行動を観察するんだ!」ってことかな。「他人に表明している信念」と「実際にどう振舞うか」に整合性をもとめちゃいけないんだ。論理学じゃないからね。もう一つは被害者意識マシマシで他罰的になっちゃうと全く得るものがないことが分かったかな。私が考えてることがこんな感じなので伝わらなかったのも問題。(似たことを考えたことがないと伝わらなそうな内容だからね。)

■へびあし

これまでとは話題が少し変わりますが「価値」に関して考えたことを。森羅万象を価値によって順序付けた場合に、なるべく価値が高いものを追い求めたいといった気持ちがあったので考えてきたこと。一番関心があったのは人間の価値を何で定めるかといった問題な気がする。

「価値」といった実在が存在しているのではなく「価値づける」といった動詞が存在しているだけだってのが主張したい。例えば「ダイヤモンドに価値がある」といった主張の実質はダイヤモンドの側の固定されたパラメーターとしての価値が高いといったわけではなく、ダイヤモンドを高く評価する人間がたくさん存在するだけってことになる。
逆に「価値が無い」の実質としては「それを評価する人間が少ない」であって、つまりは割合の問題になる。「身長2m以上の人の割合は少ない」ぐらいの意味で「それを評価する人の割合は少ない」は受け入れる。認めたくないのは「それが内包する固定された属性としての価値が低いから、それには価値がない」って主張。身長2m以上の人の服や靴があってしかるべきなのと同様に、万人に評価されない対象にどうしても惹かれてしまう人たちの場所があってしかるべきだよね。身体的な少数派には寛容さを発揮できるが、思想的な少数派に寛容さを発揮するのは難しいみたいだよね。

問題となるのは人間は他人からとても影響を受けやすいし、周囲の多くの人間がAといった主張を信じているのならばAが何かしらの実在に根拠を持っていると信じたくなるといった点にあると思う。おそらくこうして形而上学が生まれる。現象の背後に常に何かの理論が隠されていることを期待してはいけない。理論を仮定したその瞬間から理論に反する現象を否定したくなる。さっきの例だと「ダイヤモンドを評価する人間がたくさん存在する」って現象の背後に仮定される理論が「ダイヤモンド自体に価値が内在している」といった理論になる。ダイヤモンドなんて無害な例をあげたけど、有害な理論化はたくさんある。例えば「他人の役に立っている人は尊敬を集めている」といった現象から「人間の価値はどれだけ他人の役に立つかで決まる」といった理論が生まれる。するとその理論から「他人の役に立たない人間は価値がない」といった理論が派生する。「他人の役に立ちたい」を信じれば信じるほど「他人の役に立たない」を否定するようになる。危険だよねェ。

このあたりの立場についてはもう少し踏み込んで自分の立場を説明してみる。古今東西に存在してきた様々な共同体を俯瞰した立場から「ある主張は多くの共同体で正しいとされている」は受け入れる。例えばさっきの「人間の価値はどれだけ他人の役に立つかで決まる」とかはいろんな共同体で正しいとされていると思う。しかし「そうした主張は何かしらの真理を記述しているから多くの共同体で採用されている」は受け入れたくない。いわゆる「~である」から「~すべき」を導くなってやつ。「ビーバーは川にダムを作る性質がある」ぐらい価値判断を含まない意味で「人間はAをBとみなす性質がある」といった意味でなら受け入れられる。ただし、こうした立場が具体的に手を動かすための何の結論も生み出せないことは自覚している。

他人の「AはBすべきだと思います!!」といった発話については「発見法」としては受け入れるが「正当化」としては受け入れない。つまり「わたしはこんな感じの信念を持っています。わたしに関係のある領域で物事の意思決定を行う場合は私のこの信念を考慮に入れてください。」ぐらいの意味なら受け入れるが「私の信念は合理的な人間なら必ず受け入れてくれるような正しい主張です。これが最終的で決定的な結論です。」の意味だと受け入れたくない。そもそも私は「人間が正しいと思えること」と「現実を良い方向へ導くこと」が一致するとは思っていない。他人の意見に従って失敗したところで責任なんてとりやがらねェですし、私がどう考えるかに踏み込んでくるな!!って感覚が強い。

いろいろ書いておいて台無しなことを言いますが、一人でいるときはこんな感じの事を考えるけど、他人といると「自分以外の人間がそこにいる」といった形容しがたい影響力によって、こんな感じのことを全部忘れちゃう気がします。

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