親ガチャについては論評するのに死にガチャについては想像しない

はい、こんにちは。
賛否両論記事が来ました。
分かってて何で書くのかって?すみません。

タイトルを見て、何のこっちゃと思われている方もいると思いますが、
親ガチャとか言って、生まれた時に手に入れる待遇の話はするのに、死ぬときにどういう風に死ぬのかっていう話はあんまりしませんよね。とはいえ、人ってガチャみたいに運で、とあるタイミングでとあるカタチで死に方が決定されたりします。
その中で、あの人の死にガチャは当たりだ、あの人のは外れだということがぶっちゃけあると思うんです。

で、やっぱり、現状の社会基準と照らし合わせると、ここまで書いたことは不謹慎だと思いますし、やっぱり一般的に死って重いものとして捉えられているので、死にガチャみたいな適当な言い方って嫌われるんだと思います。

とはいえ、時は高齢化時代で実際にこれまでの歴史の中でかつてなかった勢いで毎日人が死んでいきます。
それら一つ一つの死について深く考えるのは苦しいが、亡くなった方の人生についてガチャというカタチで気軽に思い返してみれるというのは悪いことじゃないんじゃないかな?と思い、こんなことを書き出しました。

結構人って、死を遠ざけようとするところがあると思います。
専門的な教養があるわけではないので今から言うことはかなり適当で、普通に怒られるかもしれないのですが、
穢れとか祓えだとか塩をまくみたいに死というものは忌むべきもので寄せないようにという思想があるんだと思います。
だが、少子高齢化で生まれる人より死ぬ人の方が多い社会状況の中では、人の死というのもライフステージの一つとして、むしろ積極的に考えて、残された人がどうやって気持ちを整理するかというところにもう少しフォーカスした方が良いと思うんですよね。
つまりは、祓って日常から切り離すというよりかは、日常の中にあるものとして社会全体が考えていく必要があるんだと思います。

親ガチャ死にガチャ、はじまりとおわり

人は親から生まれてどこかで死にます。
どこで生まれてどこで死ぬかもほぼランダムなんだと思います。
人生の中でどう行動するかを本人がコントロールすることはできますが、
生まれと死という人生の枠組みだったり制約は当人がコントロールできないんですよね。
とはいえ、この混沌とした世の中では各々が自分の人生って何なのかみたいなことを考えることが割とあると思っていて、
それを考えるときに始まりと終わりのガチャのようなことを考えてもいいんだと思います。

だから、親ガチャだとか死にガチャだとかが不謹慎だ!と言う方もいらっしゃるかもしれませんが、
人生を捉えなおす取り組みをしていると考えると、
むしろみんながそれについてもう少ししっかり考えた方がいいんじゃないかなぁと思っている今日この頃でございます。

タイトルの「親ガチャについては論評するのに死にガチャについては想像しない」については、
どっちも考えた方が良いんじゃない?ということを言おうとしていたのでした。

以上です。
なんだか、とっちらかって終わっちゃいましたね。
今回はそんなところでございました。
長々と失礼いたしました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?