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世界が災厄に見舞われた時、僕は同調圧力から解放された

こんなことを書いたら人格が疑われるかもしれない、という恐怖心を抱きながら、この世界のどこかでひっそりと同じ想いを持っている人に「ここにもそういうやつがいるぞ!」と小さなエールになれば良い、という気持ちで文字を生み出す。

在宅直後、僕は寂しさで死にそうだった

未曾有の世界的危機によって、当たり前のようにリモートワークへと切り替わった、春。
うちの会社はベンチャーらしいフレキシブルさで早々にリモートワークになったことで、世間が外出自粛をする少し前に、家の中へと閉じ篭っていた。
慣れないリモートワークという中で「サボってると思われたらどうしよう」といつも以上に怯えながら長時間労働をしていく様は、お世辞にも健康的とは言えずストレスは溜まる一方。
また、そろそろ会いたいと思っていた人たちに会えなくなったことや、このまま世界から隔絶されて取り残されたまま死ぬのは嫌だなぁと不安になったりもした。

過去仲の良かった人たちへ順番に連絡を取り、唐突に電話をかけて寂しさを紛らわせては、電話が切れた瞬間の静けさに耐え切れず、暗闇で布団を被って目を強く閉じる夜。

日々報道される悲しいニュースに心を痛め、SNSで飛び交う心無い発言に勝手に傷つき、自分はこんなに繊細だったのかと驚いた午後。

寂しさで人が死んだ例は聞いたことは無いが、もしかしたらその1人目に自分がなるかもしれないなとぼんやり考えながら、不況よりもひとりぼっちの朝に怯えた。

土日に気づく日常

そんな日々を過ごす中で、土日はしっかりと寝て本を読み、Netflixで映画を観た。
少しランニングをして汗を流し、デリバリーで中華を食べる。
麻婆豆腐を口に運ぶ瞬間、僕はこの1日が3ヶ月前とも、1年前ともまるで変わらないことに気がついた。

そういえば僕は人と会うのもめんどくさいし、外出が苦痛で苦痛でしょうがなかったな。

恐らく、世間の人たちの何倍もこの生活に慣れている自分は、少なくともストレスが他の人よりもかかるわけないよな、と思い直し青椒肉絲をゆっくりと飲み込んだ。

気の合う人と確かな繋がりがあることを実感していれば、人間関係の糸の数の多さにこだわってるわけでもなく、何度も飲み会の途中に脱走したことを思い出す。

交流会は明らかに無理をしていたし、初対面の人と話が弾まなかった日は家で泣くこともあった。

なにより、他者の苛立ちを見るだけで恐怖でストレスを感じる僕は、他人の感情に触れる回数が減ったことで明らかに精神が健康になっており、無理してないなということにほっとしている。

上手く人間社会の中で溶け込めるか不安だった日々を気にすることなく、目の前の仕事と、大事な人とだけ連絡を取るという選択権は心を軽くしてくれた。

静けさ、という幸福

自分はこの状態がとてもあっているのかもしれない、と思ってからの日々は仕事にも集中出来、オンライン飲み会にも参加せず、余計な不安もなく、変わらずに好きな人たちとだけ連絡を取り続けている。

また、外出が自粛になったことで、「旅行をしている人の方が価値観が広い」とか「交流会にたくさん参加してる人は知見が広い」とか「直接人と会うのが好きな人はあったかい」みたいな同調圧力がなりを潜めたことで、SNSを見て傷つくことが激減した。

「旅行が嫌いな自分は価値観が狭いのか」
「交流会が辛くて辛くてしょうがないけど、社会人だから頑張って馴染まなきゃ」
「全然面白くない話に笑って合わせないと嫌われるかも」

そう、日々鬱々とした気持ちを抑え込んで、まるで社交的かのように振舞っていた自分は、散歩が嫌いなのに引き摺られている犬のようで、なんだか情けない顔をしていた。

絵を描きはじめた。
下手な絵を描いてることの恥ずかしさが、自分だけの世界では汚い線やカラフルな色に変化した。

楽器を買った。
この歳で音楽を練習してるなんてダサいかも、という自意識は下手くそなドレミになった。

勉強する時間を作った。
社会学基礎なんてものを買ったりして、大学1年生みたいな教材を熱心に読んでいる。

そんなことよりも仕事に繋がることを一つでもするのが立派な社会人で、"ちゃんと"してるんだという呪縛が解かれ、人生で一番幸福な日々へと変わった。

仕事の質に対しても、明らかにこだわれるようになっている。
タスクをこなしてる時間を多くするほうが働いている感があったため、インプットは後でどうにか時間をつくるというやり方をしていたのが、今では仕事の中でインプットの時間を作り効率的にアウトプットへの流れを作れるようになった。
何より「あの時こうすれば良かったのか」という馬鹿みたいな発見を後からしなくて済む。

他人に興味がないのではなく、ありすぎるゆえに敏感に反応していた心は、必要なところにだけ時間を使えるようになりとても穏やかになっている。

取り戻される日常への不安

こんなことを書くと、飲み会とか二度と誘ってもらえないかもしれないなと思うが、めんどくさいことに誘われたくないわけではない。

久しぶりに直接顔を見て、元気だった?と笑い合いたい人もたくさんいる。
もしかしたらその時には「生きてて良かったなぁ」と泣いてしまうかもしれない。

それでも、やっぱりまた「最高の仲間とこんな日々楽しくしてるんだぜ!」という承認欲求まみれのアピール合戦を見ることになりそうで嫌だなぁと思うし、そういう人とつながっていることが仕事において重要な局面があるという状況が容易にミュートボタンを押させてくれない。

多くの人たちと合わないということへのストレスと、それでも合っているふりをしないとどうにもならないことに苦しむ日々が戻ってくるのは、未知のウイルスに怯えて近くの松屋でさえも遠くなった今よりもしんどい。

僕にとって不幸だったのは、今まで自分のことも騙してきたのに、それがまるきり幸福でなかったことを強制的に知る機会を持ってしまったことだ。

多分、この外出自粛は多くの人にとって本当に辛くて、一刻でも早く元どおりになりたいと願うものなのだろうけど、元の世界が今のみんなぐらい辛い気持ちでいる人たちがいたということに、取り戻される日常の中でも思い出して欲しい。

一緒にされたくないかもしれないが、LGBTQの人たちやかつての被差別対象者が社会運動によって"多様性"として受け入れられていく姿は、表面化しないマイノリティとして、優しい理解者が得られる羨ましさすら感じてしまうくらいだ。

"辛さ"を比較することも、競争させることも出来ないのだから、僕はこの静かな非日常に幸福感を覚え、日常に怯える静かなマイノリティたちが、形を変える社会の中で緩やかなに包摂されることを願っている。

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