頑張ること

こんばんは、Niskです。

「私、頑張ったな」という気持ちって、どこから生まれるでしょうか。褒められた時?上手くいった時?様々だと思います。

私はずっと、褒められないと生きていけない、と思っていました。それが我儘だと知っても、あまりにもそれを糧に生きていたし、あまりにもそれを頼りにしていた。ただ私は学校の先生にいい顔をするとか好かれるように振る舞うのは(今で言う忖度です)嫌いでした。だからテストでいい点を取ることと、自分の仕事をしっかりこなすことと、問題を何も起こさないことで先生に褒めてもらって、それで自分の存在証明のように感じていたのです。

それが、自分が最高学年として部活の合宿に行った時に、変わりました。合宿では最終日以外誰にも褒められませんでした。でもその代わり、誰にも否定されませんでした。その時思ったのです。「ああ、私は、自分で自分の頑張りをちゃんと認めることが出来る」と。自分で決めた結果にたどり着くこと。合宿が滞りなく、喧嘩なく終わること。それがだんだん達成されて行くのは、だれに口出しなどされなくても十分すごい。

その後家に帰って、さらにそれが浮き彫りになり、深まりました。私は普段、家で行動の端々を否定されるぶん先生に褒めて欲しいのだ、と。いえ、私の両親が虐待などする親だと言いたい訳ではありません。そういうふうな不法な厳しさではないのです。ただ今考えたらわかるように、子供が心配だし、ちゃんとやって欲しいし、そういう気持ちから出る言葉なのです。往々にして全ての行動にいちゃもんをつけられる生活をしていたら、そりゃあ自分で認める自分では足りないし、潜在的に親はだいたい正しいと思い込む教育を誰しもされています。

残念ながら、私は各親を責めたいのではありません。むしろ子供にごちゃごちゃと言いたくなってしまう気持ちも大いにわかります。だから、「仕方ない」のでしょう。自分の頑張りを自分で認められる自分になるには、「物理的に」大人にならないといけません。精神的ではなくて、親の手から逃れなくては。それはある意味で自由で、その分束縛で、それでも、自分を愛する第1歩だと思うのです。

私はその合宿の時に、私は褒められないと生きていけないという気持ちが崩れました。それは、幸せなことだと思えます。

何を伝えたかったのかあまり明確でないままですが、これくらいでひとまず本日は終わりにさせていただきます。お読みいただき、ありがとうございました。





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