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歌を歌う時は

歌を、歌う。
素人がそんな機会に遭遇するのは、カラオケくらいなものだ。
そんな機会が、私のような人付き合い皆無な人間にもごく稀に訪れる。

歌うことは、好きだ。
なんとなく歌うのが楽しいし、上手く歌えなくてもスッキリする。
大きい声を出すこと、それだけでもきっと立派なストレス発散なのだろう。

ところが。

世界がとんでもない渦中に飲み込まれて以降、そんな機会が壊滅的に失われた。
素人が歌う機会は、あっという間に無くなってしまったのだ。

歌うには、理由が欲しい。
一人で歌って踊るにはちょいと勢いが足りないもので、願わくば理由が欲しいのだ。
その理由というのが「カラオケ」だった。
あの場所へ行けば歌う理由がつく。
そんな便利で幸せな場所は、一気に遠のいてしまった。

そんな歌が、ようやく戻りつつある。
カラオケボックスが感染源になり得ると叫ばれて数年、色々と対応が進んできた。
我が家周辺のカラオケボックスも、ようやく通常どおりに近い営業を行っているようだ。
そんな場所に、何年かぶりに行くことができた。
もちろん感染対策は万全に。

歌えるとは、思わなかったけれども。
それは思った以上に深刻だった。
なんというか、喉がすっかり閉じてしまっているのだ。
素人目にも理解できるほど腹式呼吸はままならず、明らかに「喉から声が出ている」状態だった。
腹式呼吸を!と思うのに、全然思ったように声は出ない。
無理をして歌ってみたが、あっという間に声は枯れた。
なんという体たらく。

歌を、改めて歌いたい。
そんな思いに駆られている。
歌う場所は遠ざかったけど、冷静に考えれば歌うことはできたはずなのだ。
一人の部屋で、車中で、道端で。
大声は難しくても、少しなら歌うことはできたと思う。
それなのに、その機会さえも私は自身で手放していたのだ。
それはもしかしたら、この理不尽な世界に絶望していたからかも知れない。
そんな気力さえも失われていたからかも知れない。

それでも、歌はこんなに近くにある。

カッスカスな喉を抱えながら、少しばかり反省した。
自ら歌うことを手放してしまったら、そりゃあ声だって出なくなるのだ。
割と絶望的な世の中であることは変わらないけど、カラオケボックスは頑張って営業している。
それならば、私だってもう少し頑張ってもいいんじゃないだろうか。
歌をもう少し取り戻したら、もうちょっと世の中が楽しくなるんじゃないだろうか。

帰りの車中で、少しだけ流れる曲に合わせてフレーズを口ずさんだ。
もちろん喉はカッスカスのままだけど。
私が敬愛してやまない星野源は「歌を歌うときは背筋を伸ばすのよ」と歌った。
推しを習って、背筋をしゅっと伸ばして、目線を前に向けて。

そうして歌うと、私の歌はちゃんと私の身体にあった。

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