正しさとは何かがわからなくなってしまった時代に

モラハラ関係については言及していなかったのだが、このエントリーを見てどうなんだろうと思ったわけである。

今も離婚後共同親権反対!の声がシングルマザーやフェミさんを中心に根強いわけである。

こういうシングルマザーさんが息子を育てた時、その息子さんが大きくなって嫁さんをもらった時である。

娘さんを育てた時は比較的シンプルである。子連れ別居するのはおおよそ妻側であり、親は自分の娘や孫を支援するだけで良い。娘の元夫については「どうせDV、モラハラなのだから面会交流などしなくてよい。男尊女卑反対。女性をエンパワメントしよう!」というだけでよいし、それはフェミニズムには何も抵触しないであろう。男は死ねで問題は終わるわけである。

けれども、仮にシングルマザーさんが息子を育てた時にはどうだろう。その親、祖父母の代では守るべきは娘であり、その孫はまだ二次性徴も見せておらず、むしろ、無性の存在であろう。要は娘の付属物に過ぎないわけである。

けれども、その孫が大きくなって息子として成長した時、まあその祖父母は現役引退するわけである。その息子の親は母になる。その息子が妻を娶って、子供ができた後、その妻が「我が夫はDV、モラハラ!」と言って子連れ別居することになる。

その時、シングルマザーだった母親は姑という立場になるが、その存在は分裂せざるを得なくなる。つまり、自らも夫を捨てて子供を連れて逃げたわけである。この行動を否定することは自己否定になってしまう。そういうことであれば自分の息子の妻が起こした行動には一定の評価が与えられねばならない。これが最初の手紙であったということだろう。

けれども、そこで終わってしまえば、もう自分の息子は廃棄処分ということである。筋金入りのフェミさんであれば、自分の息子といえども男であることは間違いない。男には何の権利も与えないということが男尊女卑の打破に繋がり真の女男平等が来るのです」というかもしれないが、まず100%の母親は息子を見捨てないであろう。そりゃ前妻を追い出して後妻をさっさと迎え入れるような男であれば別だろう。けれども、もう日本のふやけたような男であれば妻に捨てられて泣いてばかりいるのではないか。

そういうメソメソした我が息子を見ると姑もかつての自分の行動など棚に上げて、こんな可哀想な息子のためだ、元妻もちょっとは考慮してくれてもいいだろうと都合のいいことを考えて2通目の手紙になったということではないか。

無論、姑も自分が嫁の立場でそういう手紙をもらったら怒髪天をついて手紙を焼き捨てたかもしれない。そういうところで二つに分裂していると言えるわけである。

無論、離婚そのものは昭和の時代からあったと思うけれど、昭和の時代は子供は家のものだった。だから妻側が子供を置いて家を出て行き、父親方に隠れて母子が会うということも珍しくなかったであろう。これが戦前戦中世代が現役を退き、戦後世代が大多数を占めるようになった現代ではもう家制度は残滓すらなくなったので子供は母親のものになった。子供が入院する時、もう祖父母が「自分も仕事などで忙しいから」と言って面倒をみにこなくなったのが平成年代である。

おそらく、今はそうして見捨てられて育った子たちが親世代になってさらに子供を見捨てているセカンドサイクルに入り出してきているのではないか。そこでは親の自我が膨れ上がっているのでもう親からは一方的に愛情という名の自己満足を投げつけられるだけで保護されることのなくなった子供たちが自らが保護されているという感覚を求めて集まったのがトー横やグリ下なのかもしれないとも思われるわけである。

問題は彼女たちもしくは彼らが例えばかつての孤児院のように十分に愛情を与えられていないとか対応が不十分であったというわけではなく、家庭から逃走している点であろう。もはや家庭は子供たちの「居場所」という愛情に溢れた場所ではなくなっているということである。

これは一方的に親のせいかというとそこもはっきりとはしない。ジェンダー平等の掛け声のもと、男の存在感は否定されるべきものになったわけである。昨今の離婚後単独親権絶対維持の叫びにあるように男は奴隷として下働きをするだけの取るに足らない存在であり、ただ、女性にお金を上納するだけの無価値な存在であるということになりつつあるわけである。じゃあ女性はというと全権を持つ独裁者になっていっており、一方では矛盾を一手に引き受けて分裂してみたりする不安定な存在になっている。残念ながらフェミさんが唱える世界では問題の解決に1ミリでも近づくようにすら見えないのである。

誤解を恐れずにいえば、彼女たちフェミさんやジェンダーの人が目指す家族は子供を犬や猫のようなペット扱いする独善的な愛情にしか見えないわけである。無論私は犬猫に尋ねることはできないのでそういう独りよがりな愛情を与えられた彼らが幸せかどうか走る由もないが、人の思春期では逃げ出したくなる人が多いのかもしれないと推察するだけである。

こういうものはすでに社会の多くの局面で蝕んでいる結果が現れているだろうから一つだけ改善しても目に見えた変化が出るとは限らない。蝕まれている局面をより大きく見せるようであれば却って物事を悪化させるように受け取られてしまう可能性もあり得る。

本来ならば、仏教の八正道に立ち返って正しい生活に戻るべきなのだろうが、もはや釈尊入滅二千年を超えた末法の世なので比叡山のホームページを載せるだけで終わりにするのである。

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