子供を守るために必要なことは何か

こども対策について、左派の目指す世界が本当に正しいかどうかについても議論する必要がある。自民党が反対しているから左派が正しいということは簡単に言えることではない。

子どもの権利条約でも家庭的養育を否定していない。むしろ、子供が両親に会える権利を保障しようということが明記されている。

左派の求める「社会による養育」は否定されていないが、というより、不適切な家庭による養育においては社会が積極的にレスキューする必要があるということは当然絶許可的に行うべきだが、家庭を無視してはいけないというのが当然である。

例えば、日本では離婚した場合には一方の親しか親権を持てない。他方の親は親権喪失するわけである。もちろん、単独親権を持つ親が個人的に共同養育を選択すれば別であるが、法律的には同居親と子供の家族と別居親は別の家族ということになる。

なので、離婚により同居親(ほとんどが母親)と子供が母親の姓に変更してもそれは同じ家族で別姓になったのではなく、別の家族が別の姓を名乗るという意味になる。後、しばしば勘違いされるが、祖父母の家族と親子の家族は別である。今朝のNHKニュースで選択的夫婦別姓の根拠としていきなりそういうことを主張し出していたので驚いた。

今の日本の制度では現実的には90%以上は離婚後の親権は母親の単独親権になっているので、父親はボランティアとして子供の支援を行うことになっている。それは、母親の親権が強いので、母親が拒否すれば父親は子供の養育には関与することができない。子供が成人して、親権の存在が無意味になるまでは父親を排除することが可能である。流石に成人した後に親が子供を支配することはできない。

子どもアドボカシーも別居親に会いたくない、父親はDVなので親としては適切なので会わせないということを前提に子供の意見を聴取したいということのようである。多分、子供が会いたいと言っても、「それは子供の真意ではないのでDVの元父親は悪い人だから二度と会わないと言いなさい」と説得するのがこのアドボカシーの仕事になるのだと思う。

別居親と子供は一切会わせないというのは簡単なことであるが、子供と別居親を会わせるのは手間のかかることであり、同居親にとってはストレスのかかることになるかもしれない。そんなストレスをかけるよりも別居親を排除して存在しないようにした上で、養育費だけ同居親の必要額を強制的に徴収するという方が同居親、つまり母親にとってはストレスがないし、幸せであるだろうからである。

シングルマザーが幸せでさえあれば、たとえ、同居親が高額な養育費を請求されて支払えなくなってもよいわけである。強制徴収なのだから例えば額面20万円の月収の別居親の元父親に50万円の養育費を請求して何が悪いだろうか。子育てにはお金がかかる。学校の月謝もあるし、塾やお稽古ごともちろん必要だし、きちんとディズニーランドに行ったり高級ホテルに泊まって高級レストランで食べることで食事のマナーを習得することも重要なのである。つまり別居親は必要な額の養育費を支払うべきなのであって高々収入が少ないなんて言い訳をすること自体が信じられない。そういう低能な別居親が破産したらホームレスになっても無視しておけば良いのである。たとえ無職の別居親であっても子供に必要な額を借金として強制的に徴収しさえすればその借金を支払うのは別居親の役目であり、それを払えずに自殺したとしても、同居親と子供には何の関係もない。むしろ、死ぬな、借金を返し続けないのは非人間だ、それでも親か、そらみろ、こいつは単なる低能の悪い男だと非難できるので同居親にとっては都合がよい。

左派の目指す子供の権利の世界は父親にとっては地獄の世界になり得るのでそういう世界では男は結婚しない方が幸せなのである。あの自民党の思想のバックである親学がいいなんて少しも思わないけれど、左派の目指す社会であれば積極的に男は結婚しない方が良い、独身で人生を楽しんだ方が良いとアドバイスしたくなるのである。

じゃあどうすればいいの?ということになると、やはり一定の社会的養護の強化は必要になる。つまり、父親も母親も親としての役目を果たせない家庭は一定数あるわけで、そういう家庭にはきちんと介入をかけて子供が適切に養育されるように援助しなければならないわけである。

もちろん、前提は家庭的養護である。家族の中で安定して養育されるのが子どもにとっては一番な訳である。もちろん、ルーマニアのチャウシェスク政権で子供たちが親と引き離されて不適切な養育をされたために世界的にも稀な愛情遮断症候群の事例を多数引き起こしたことは忘れてはならないのである。

左派の人はおそらく子供は小さな大人だから食事さえ与えておけば勝手に育つと今でも考えている人がいるかもしれない。実際、ツイッターでもかつて、三歳児神話の否定のために子供に母親は不要、愛着形成は保育園の保育士さんに行えばいいなんて主張していた人もいたが、そんなに子育ては都合よくいかないのである。だからこそ子育ての問題で今も多くの人が悩んでいるわけであろう。

本来なら子育ての予算を増やして多くのお父さんお母さんが援助を受けて破綻せずに子育てを行える政策が必要であろう。

けれども、それは常にうまくはゆかない。子どもに予算を出すくらいなら高齢者の方が優先だろうという人が多いからである。子どもには選挙権はないし、そもそも、子どもの数よりも高齢者の数の方が倍以上あるからである。

子どもなんぞ放っておいても勝手に育つ。金なんぞかける必要はない、それよりも恵まれない高齢者をなぜ助けないのだ。子どもに無駄金を出す余裕があれば恵まれない高齢者に愛の手をというのが当然であろうという人がたくさん選挙で投票するのでもう数十年も子ども対策、少子化対策は成果を上げていないのである。

もちろん高齢者やその支援者は言うであろう。「子どもにお金を出すなんてそんな世代間闘争はやめて黙って高齢者支援に全力でお金を出してください。子どもにお金を出すなんて甘えです。足りぬ足りぬは工夫が足りぬ。子どもにお金を出すよりもっともっと工夫してください。まずは高齢者の援助が先です。」

民主主義の世界では多数派が勝つのである。

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