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話し合いできないというところを話し合ってこそ子どものためである。

この「虐待の場合こそ共同養育計画を」というのはなるほどそうだよなあと思うのであるが、その言語化は難しいのである。おそらくこの引用したnoteを書いたご本人は話し合いできない夫婦では夫は全てを捨てて養育費の支払いマシーンになればよい、男はDV犯罪者なのだから共同養育など頭が狂っている。男なら自分の人権を投げ捨てて女性の踏み台になれ、ジェンダー平等なのだから男は金だけ出して消えればいいという主張なのであろう。

恐らくはフェミニズムの人やジェンダーの人、左派リベラルを自認する人たちはこの意見に大賛成なのだと思う。男はマジョリティなのだから人権など不要。生存権とか自由権など何の権利も持たなくてもマジョリティであるだけでマイノリティより強いのだから男は拷問をかけようが奴隷状態にしようが恵まれ過ぎている。ひたすらにマイノリティの権利を主張すべきだということになる。

子供についても「別居親と会いたくない子どもの権利」という奇妙奇天烈な主張をされることがある。この言葉を聞くたび、鬼のような顔で子供を睨みつけ、「別居親と会いたい」なんて言おうものなら食事抜きの折檻をしそうな同居親という恐ろしいイメージが浮かび上がってくるのを押し留めようもないのである。子どもたちは生き抜くためには同居親と一心同体化せざるを得ないであろう。そうなってこそ同居親は我が子を再び胎内に入れて安心できるのだというかもしれないが、それはもう鬼子母神の様相である。

こういうことを堂々と主張する人がジェンダー平等論者である。

平等って何?などと聞いても返事は返ってこないか「女性は差別されているのだからもっと要求すべきなのだ」という答えが返ってくる。彼ら彼女らジェンダー平等主義者たちの天秤は常に傾いていて女性側にどれだけ重りを乗せようとも決して平衡に達することはないのである。

海幸山幸のお話と同じで、海で失った一つの釣り針は例え剣を鋳潰して千個の釣り針を持ってこようとも失った一個の釣り針の方が重いのだと主張されるわけである。

海幸山幸の話では海に探しに行った山幸は竜宮城でその釣り針を見つけ、さらには塩満玉と塩干玉を渡されて無茶を言った海幸は散々に懲らしめられるのだが、残念ながら今の日本では山幸は犯罪者扱いであり釣り針を千個と言わず一万個でも10万個でもガンガンよこせと言われてもう海幸の天下である。

もう山幸は海幸と絶縁してもしくは最初から会わない方が幸せなのではないかという絶望感が満ちているというのが今の日本である。

そういう中で嘉田氏の主張は爽やかである。

一旦縁あって夫婦となり、また親子となったものである。そこで児童虐待は不正常な状態である。子どもの安全を確保するためには一旦児童相談所が保護して分離を行うことが必要であるかもしれない。もちろん、分離した先でトラブルに遭う危険がないとは言わない。どちらがより安全であるかということになる。

そうして一定の安全度を高めてから家族の再構築に入る必要があるわけである。主に親たちが、自分が何が悪かったか、どうすれば子供が安全に養育されるかということを考えて実行せねばならないわけである。

本当に不本意なことであるが、「我々親には一片の瑕疵もない。全て児童相談所の悪意や妄想により分離したものである」という親には子供は返せないわけである。職権で保護したような事例ではそりゃ子どもの危険が明白であったわけある。だからこそその危険が除去されるまでは子供は返されないであろう。そこで親が自分達には何の問題もないというならば問題は温存されたままということになり、そこに子供を返すと再び子供に危害が加えられる危険が大きいわけである。

親たちが問題を認めてそれを改善して子どものためによりよい環境を見出すことこそが重要なわけである。誰しも自分は悪くないと言いたい。けれどもそこで子どものために新たな平衡を見つけることこそが重要である。

無論、どうしても看過できない非行、性的虐待や死に至る程の暴力があった場合にはやむを得ず親権が停止されたり喪失に至る場合もあるだろう。けれどもそうでない場合、たとえ虐待されたって親の元に帰りたい子どもだってたくさんいるのである。そういう子どもたちが安心して両親の元に帰るためには両親の方もきちんと話し合って共同養育のための話し合いをして、しかも行動によって示す必要があるのである。

いや、そりゃ夫婦の相方が悪い、自分は悪くないという人や児相が悪い、自分は何も悪くないという人もたくさんいるのだと思うが、自分達の過ち、不適切な行為を認識してそれを改善して再び子どもが家庭に戻ってきてもらいたいという努力をしている夫婦もたくさんいるわけである。

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