子供の最善の利益とは何かー大人はあまり餓死しないが子供はそうではない

この大阪で起こった餓死事件が直接的ではないけれど、大きなインパクトがあるわけである。同じ大阪市で働いていてこんなことが起こり得るのかという恐怖ということでもある。

私もしばしば揶揄的に餓死という表現を使うことがあるけれど、この子供たちは母親に保護されることなく食べるものもなく助けてくれる人もなく飢えて死んでゆかねばならなかったわけである。

大都会である大阪市の真ん中でである。

子供は社会で育てるものなどというゴタクはこの子供たちの前では虚しいだけなのである。

大阪の当局はこの母子が住民票を移していなかったから把握できなかったと言ったそうだけれど、当時小児科医として母子保健を担当していたものとしては痛恨の極み。どうして助けてあげられなかったのかという思いはずっと消えないわけである。

無論のことであるが父親が養育費を払って意さえすれば悲劇は防げたかというとそういうわけでもないだろう。たとえお金があったとしても、見知らぬ町で3歳の子が自分一人で買い物になど行けるはずもないのである。

そりゃ中学生とか高校生であれば自力で脱出できるかもしれないが、小さな子供は親の保護がなければ死ぬのである。

無論、多くのシングルマザーは子供を一生懸命慈しんで育てていることは間違いないであろう。けれども、ひとたび歯車が狂ってしまえば密室になり得る。密室でたった一人の親が子供を見捨ててしまえば、そこから脱出できない子供の死のリスクは跳ね上がる。

無論、行政だって警察も関わっているし、児童相談所もある。地域では要対協などでハイリスク児の把握に努めているのではないかと思う。けれども、それだけでは網からこぼれ落ちてしまう子供達がいるということであろう。

なので子供には多くの目が必要なのである。

この先生のエントリを何度も引用して恐縮だが、誰一人犠牲者を出さないためには単独親権は不適切なのである。そりゃシングルマザーもやっと追い出した元夫に近くに来られるなんていや!という気持ちはわかる。けれどもそれが「外の目」ということになるわけである。なぜ自由に転居できないの?という主張も目にするが、「外の目」を失わせないために転居の制限は必要である。最初の餓死事件だって母子が大阪に転居しなければもしかしたら知り合いの目もあったかもしれず、住民票のある地域の行政もハイリスクとして注意していたかもしれない。そうであれば餓死という悲劇は防げたかもしれないのである。全てはifの世界の話だけれど。

けれども、夫婦と子供という密室も当然あり得る。

目黒区の船戸結愛ちゃんをはじめとして少なからぬ子供たちが夫婦の目の前で虐待死という悲惨な運命を辿っているわけである。

つまり、核家族では到底十分ではない。今は進歩的な家族社会学の学者たちが核家族や個家族を主張しているのが流行のようであるが、子供の安全を考えると個家族どころか核家族でも全く十分ではないのである。もっと多くの人が子供に関わる必要があるのである。それが子供の安全につながるだろうし、子供の最善の利益にもつながるだろう。

これは必ずしも「大家族の復権」という必要はない。今の日本は地域コミュニティも崩壊しているので、その再編を行うことによって、特に血縁はなくても、一定の物理的もしくは仮想的なネットワークを再編してそこに家族が接続することでオープンな関係を築くことができる可能性はあるだろう。

逆に個家族であればそれがシングルマザーであってもシングルファーザーであっても仕事と育児の両立は困難であるわけである。実際、シングルマザーの低収入とそれによる貧困問題は解消されているわけではない。シングルファーザーはそれより比較的高収入であるとは言っても、その高収入が可能であるのは例えば祖父母などに育児を肩代わりしてもらう場合であろう。シングルファーザーでも支援がなく、一人で仕事しながら育児をしなければならない人は両立が困難になり、離職して貧困に陥る人もいるという。寡婦手当はもともと未亡人を対象にしていてシングルファーザーは対象外であったが、貧困に陥ったシングルファーザーを救済するためにひとり親手当として父親にも支給されるようになったはずである。

今、国会で離婚後共同親権の議論がなされているが、立憲や共産党の野党議員の議論は子供の最善の利益を掲げながらその実際は単に母親、シングルマザーの利益を代弁しているだけに聞こえるわけである。子供にとっての最善の利益とは何か、もう一度見直して欲しいものである。

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