続けるということ

私にはどうしても敵わない強敵がいる。これはいつまで経っても倒すことができず、最初にいくら力を蓄えても結局コイツに屈することになってしまう。コイツの名前は「継続阻止飽きるの早」である。こいつはとても厄介で、人生において幾度となく立ちはだかってきた。身近な例でいうと、ランニングや筋トレである。休日にぐうたらしすぎて、さすがに体を動かして健康的な日々を過ごそうと思い、数日やってみるがこれが続かない。最近も再び試みたのだが、「継続阻止飽きるの早」に屈して気づいたら一ヶ月以上が経過している。他にも1週間に一回はガッツリとした部屋の掃除を行おうと試みるのだが、気づいたら布団の上で、見たくもない動画をずっと見ている。見ているのならまだいいのかもしれないが、終いには眠気にも負けて、動画を見ているのか夢を見ているのかよくわからない状態に陥っていることなんて数えきれない。

じゃあ継続しなければいいじゃないか。と多くの人は思うかもしれない。しかし厄介なのはどうせ継続できない未来しか待っていないのに、すぐに新しいことに興味を持ち、それに挑戦してみたいと思う好奇心が次々と湧いてきてしまうことだ。ギターや英語、絵を描くこと、歌、自分でテーマを決めてツイート、いくつも途中で継続を阻止してしまった。この文章を書くのも、noteではない他の媒体で何度か書いたりしてきたのだが、一年も続かずに「継続・・・」に屈してしまった。
どれも中途半端に辞めてるので、自信を持って人に言える様な継続は一つもない。
もちろん部活や食事、お風呂など、強制される環境下、最低限やっておかなくてはいけないものは継続できているのだが。

継続できない理由として、単純にしんどくなってやめるならまだ諦めがつくのだが、私は毎回そこまで達することができず、「ああやろっかな、でも明日やればいっか」精神を変えられず、志半ばどころか志組み立て始めの段階でやめてしまう。
まだしんどくなってもないのに「継続・・・」に打ち勝つことができないのはなぜだろう。まだ仮説の段階ではあるが、それはきっと、もし継続したとして自分が理想する形まで到達することができなかったらどうしようという気持ちが自分の中で少なからず存在してるからだと思う。いやいや挑戦することに意味があるのだから、そんなことは考えなくていいだろうという綺麗事は一旦押し入れの奥にでも入れておくとして、挑戦した痕跡を自分が納得いく形まで継続していきたいのである。また、あのMLBで活躍しているダルビッシュ有はこんな感じのことを言っていた。(文章を書く上で引用というものを一度やってみたかったから嬉しい)「継続をできないと感じる人は、継続のハードルが高い。継続できず期間が空いたとしても、そこでまた再開すれば人によっては継続になる。どっからどこまでが継続なのかを自分の中で決める。」確かにどんなに継続している人でも、毎日それを必ずやり続けている人というのは限りなく少ないのであって、重要なのはそれが途絶えてしまった時に、挫折せずに再開することができるかどうかなのだと思った。一度できない日があっても、許容できるメンタルが大事なのかもしれない。

私もほんの少しでいいから、今まで「継続阻止飽きるの早」に打ち負かされてきたことを再開し継続し直そうと思った。文章にするのだって、一ヶ月に一回だろうが、一年に一回だろうが、長い目で見ればそれは継続なのだ。

しかし、ダルビッシュ有が言った言葉は継続する自分に対して厳しい人に向けたアドバイスだったが、自分に甘めな私はこのアドバイスに響いていていいのだろうかということは、一旦置いておこう。

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