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夢見る6軍補欠の絶望思い出、そしてスタンドは「才能」

二十代の後半から三十代の初めにかけて、関西のマンガサークルに入会し、さらにマンガの投稿や持ち込みをやっていたことがある。

三十歳になる前に、そういうことをやっておかねば、と思ったのだ。
「じゃあなんでそれまでやらなかったのか?」というと、そっちはそっちで話が長くなるので割愛する。

なぜ関東に住む私が、メンバーと直接会いづらい関西のマンガ同人サークルに入ったかというと、単に何かの雑誌に会員募集の告知が載っていて、「ここで他のを探そうなどと思っていたら、自分は行動しないな」と思ったからだ。

その同人メンバーの一人に、「いかにもな少年SFマンガ」を描いていた人物がいた。彼は大阪より西に住んでいて、某月刊少年マンガ誌にかなりの頻度で投稿していた。
確か、彼の方から私に手紙が来て、なんとなく文通していた。

彼は絵は決してうまくなかったが、とにかく描くのが早く、雑誌への投稿頻度も高かったので一定のリスペクトはしていた。
年齢も私と同じくらいだったはず。
私も彼の影響で、同じ月刊誌に投稿したり、持ち込みしたりした。

彼の執筆速度は本当に早かった。本職を持ちながら、一か月に三十ページの持ち込み原稿を描くのはかなりのハイペースだろう。
だから、彼は本気でプロを目指しているのだと思っていた。

文通はしばらく続いた。内容はマンガ執筆上のテクニックの話とかなんかいろいろだった。

ある日、彼から届いた手紙には、
「お見合いして結婚しました」
と書いてあった。
パートナーとの新婚生活がおもしろおかしく、マンガで描かれた紙が同封されていた。

結婚のお相手は、彼のマンガをまったく面白いとも思っておらず、何の評価もしていなかったという。そこに、別にマイナスのニュアンスはない。「ピンと来ていない」というやつだ。

それにしても、である。

えーなんだよ。マンガに賭けてたんじゃなかったのか?

その後、彼から「上京するので会いませんか?」というような手紙が来たがいっさい無視してしまった。
マンガに興味のない人と結婚した以上、彼はもうプロは目指さないだろうし、投稿もしないだろう。
そんな人と会って話すことは何もない。

そもそも、最初から文通なんかするのではなかった。マンガを描いていた頃、テクニックの話などがしたくて、自分が決して面白いとか才能があるとか思っていないマンガ執筆者と関東でも交流したが、単に自分がさびしさをまぎらわせたかっただけで、今考えると意味がなかったと思う。

自分は「何か創作物を一生懸命つくっている」人(もちろんプロではない)を、その人の才能あるなしに関係なく応援してしまうことが多かった。その人の「表現したい」気持ちが痛いほどわかるから。
でも、それで「よかった」と思ったことはただの一度もない。

ある者は、前述のとおり(私からしてみたら)突然見合い結婚して創作の世界から離脱し、ある者には「応援が足りないから」という理由で罵倒された(本当に傷ついた)。
才能あるなしに関係なく応援しようと思っていたから、とある人物が主催する劇団の、何回見ても面白いと思えない芝居を、7作くらい連続して見てしまったこともある。
公演のたびに客は減る一方。何度見ても最後には首をかしげざるを得ない。
客のお見送りで主催者が出口に待ち構えているのだが、どんな表情で出ていけばいいかわからなかった。

こうなると完全に自分はピエロである。
みじめもいいとこだ。

だからといって「才能のありそうなやつの応援をしろ」とは思わない。そんな主張はしない。
ただし、自分がその人の作品にとことん惚れ込んでいるのでないかぎり、中途半端に応援しない方がいい。
そのことは忠告しておきたい。

ぜんぜん関係ないが(多少は関係あるよ)、「ジョジョの奇妙な冒険」の「スタンド能力」って、人間の「才能」を抽象化したものだろう(作者がなんと言っているのか知らないが。あ、「超能力を視覚化したもの」と言っているのは知っています)。
「スタンドの矢」に射られても死んでしまう場合があるのは、才能を発揮するには生命力が必要だから、という作者からのメッセージではないかと勝手に思っている。
あまり精神的にとことん弱いスタンド使いも、出てこないはず。
戦いの最中に成長した「ビーチ・ボーイ」のペッシなんてやつもいたからね。康一くんの「エコーズ」の成長には、ちょっとご都合主義を感じたけれど。

なぜ「スタンドは才能のメタファー」だと私が思っているかというと、岸辺露伴のスタンド能力「ヘブンズドアー」は、作者の荒木先生がもらうファンレターに、ファンの「自分はこういう人物でこういう生活をしています」と書かれているのを読むのが好きだ、とどこかで書いていたからだ。
つまり荒木先生は「自分がマンガを描くと、それを読んだ知らないだれかがプライベートを教えてくれる」ことを不思議に、楽しく思い、「ヘブンズドアー」を考案したのではないかと思う。

「ヘブンズドアー」は、露伴のマンガの才能がそのままスタンド化したものだ。だとすると、「スタンド」は才能の発露だと考えてもいいんじゃないか。
才能にはいろんな種類があるから、ドラゴンボールやキン肉マンみたいに「強さ」を数値化することができない(タイプや操作距離、成長度が「強さ」を決定づけるわけではない)。

まあ「ジョジョ」における「強さ」が、RPGのキャラクター的に、単純にレベルアップしていくわけではないのは山田風太郎の忍法帖も同じだ。
荒木先生が忍法帖を知らないわけがないが(そういえば「魔少年ビーティー」の頃の荒木先生の絵柄にはほんのわずかに、初期・白土三平のエッセンスが見られる気がする)、荒木先生が「スタンドとは何か?」を考え抜き、「ジョジョ」(正確には第三部以降)を「異能バトルもの」として再構築していることは間違いないだろう。

おしまい

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