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2019/3/1《善》や《正義》ってヤツはすぐ人を殴るから注意な、と、映画『ギルティ』の感想【書けないシナリオライターの書けない日記】

もう3月か~。2月は短いから何となく損した気分になって嫌だな。しかし、月収制だったらお得なのか。私にとっては違うけど、どこかでそれを喜んでいる人がいるかもしれないと想像すると少しイヤさが和らぎますね。

なんて書くとまるで優しい人かのような風味が立ち上りますが、そうでもありません。私は「幸せな人が少ないよりは、多い方がいいよなぁ~」と漫然と思うタイプのアホなので、物語の中で悪役が「みんなが平和で幸せに暮らせる世界を作ります。そのため残念ですが一部の人たちは殺します」的な話を始めると「おっ、一部の犠牲でみんなが幸せになるならええやん」と惑わされそうになってしまう。よく考えたらその《平和》《幸せ》が実現する保証はないし殺される一部は私にとって生きてて欲しい人たちかもしれないのにな。そもそも自分が粛清対象かもしれないし、選択が情弱過ぎる。つーかナチスとか奴隷制の話とかちょっと勉強し直して来た方がいいね。

と、ここまで考えてようやく「いかんいかん」と気付けるので、知識でギリセーブしてるけど私の素の判断は「ええやん」なんでしょう。

(いらすとやさん、《トロッコ問題》の画像まであるんかい)

その話をした上でこんな情報ネットに流したら詐欺師からの電話が鳴り止まなくなりそうですが、私は母方がとにかく騙されやすい家系で、おじいちゃんはいわゆる《借金の連帯保証人》で他人の借金を死ぬまで払ってたようだし、おばあちゃんは商店街でたまに見かける老人を集めて怪しい商品を売りつける例の店に入れ込んで老後の資金をまぁまぁ使っちゃったし、母も若い頃は訪問販売100%断れないウーマンだったらしい。とはいえいずれも首くくるほどハードなやつではなかったっぽいので良かったんだけど、そして自分自身が大きな実害を被ってないからそう思うだけなのだろうけど、私は自分の家族が騙す方ではなく騙される方の人間であることに変な誇りがある。その結果、結構な額の金が失われてるのは確かなのに、にも関わらず「お人好しな私の家系、素敵やん?」と割とマジで思っている。

もうそんなセキュリティの甘いヤツ、ウシジマくんにめちゃくちゃにされるぞと我がことながら心配になってきますが、私は《善良である》ことにかなり価値を感じていて、大学卒業時に掲げた抱負も『いい人間になりたい』だった。お前、入職3ヶ月で介護の仕事を行けなくなる形で辞めることになって、その後始めたシナリオの仕事も書けなくなる形で辞めることになるから、もっと別のこと気にした方がいいぞと未来人としては忠告したくなるとこですが、私はとにかく自分が《悪》の側になるのが耐えられないらしい。

それが明るみになったのが、正に仕事できず納期を破りまくっていた時期でした。私は生来持ち合わせている「書けないなら他にやることもないので死にたい」や、比較的常識的な「申し訳ない、お詫びのしようもないから死にたい」ってヤツを越えて、「締め切りを破ってる限り自分は永遠に悪者。その状況に耐えられない。死ねばさすがに誰も私を《悪》と思わないはず。急いで死ななきゃ!」と本気で思っていた。つまり自分が死ぬことによって《私をここまで追い詰めた相手の方が悪い》という状況を作り出そうとしていたわけです。勘弁してくれ、お前全然いい人間なんかじゃないよ。でも本当のことなので一応書いときます。(※精神的に落ち着いた今現在は、自らの特殊な堪え性の無さのために既に十分なご迷惑おかけてした皆様へ更なるご面倒と余計なトラウマ与えるのは最悪だと承知し、反省しています)

思い返してみれば私が過去にめちゃくちゃ傷ついたことって、他人から《悪》扱いされた時が9割で、その度「こいつ一生許さん」と思ってきたんですが、ほら私は人の心がわからないというか、基本的に自分と人の心の区別が付いてないので、いつものごとく「ま、他のみんなもそんな感じっしょ?」と思って流していた。しかし前述の《死んで悪名から逃れたい騒動》の際、夫にこういう理由があるので死ぬわ、と説明していたら「僕はそんなこと全然思わないけどな」「別に《悪》になってもよくない?」みたいなリアクションが返ってきたので、もうひっくり返るくらい驚いたんです。え、そうなの? みたいな。ここでようやく、私は少なくとも夫よりは《正しさ》《善良さ》への執着、こだわりが強い人間だと発覚したのだった。みなさんはいかがですか? 自分が悪になるのって耐えられますか?

けど私は別に自分が完全無欠の善人と思っているワケではなく、むしろ真逆で、(いろんな意味で《悪》な行為をガンガン犯してしまっていることからお察しいただけるでしょうが)「人間なんて《悪》にならないようにしても《悪》になってしまうものだから、せめて積極的に《悪》の道は選ばないようにしよう」と思いながら暮らしてます。しかし、その心がけがある分、比較的《善》なんじゃないかな、という甘え心はどうしてもあるので、自分で自分を《悪》だとジャッジせざるを得ない状況に置かれたり、人から「あんたは《悪》だ」と言われるとンギャーーー!!! ってなっちゃうみたいなんですよね。この日記大丈夫なのか? 毎日書けば書くほど心の汚い部分があぶり出されてくるんだが。まぁ今更取り繕いようがないので続けますが、そういう人間なもんだから同時に「我、善成(ぜんなり)」と信じ込んでいる人のヤバさというのもおぼろげながらですが自覚しておりまして。

例えばTwitterは《善が殺す勢いで人をぶちのめす》現場を頻繁に目撃できるスポットですが、もう私なんか、ぶちのめす方の気持ちもわかれば、ぶちのめされる方の気持ちもわかるなぁという感じで、普段人の心がわからない癖にそういう部分での共感性はビンビンに掻き鳴らされる。《私はいい人間でありたいと思ってる、だからいい人間なんだ》という意識の部分と、《そう思っていても罪や過ちを犯してしまう》無意識の部分が争っているのを内面から抽出され、外界の事象として観戦させられてる気分になるんです。まぁこの感覚も《他人》と《自己》の区別がイマイチついていないのと同じく、自分が観測する範囲の《世界》と《自己》の区別がついてないからなのか…。なんか難しくて自分でもよくわかんなくなってきたけど…。

ハイ! そういう意識/無意識のせめぎ合いを描いていると私は解釈している映画、『ギルティ』を観て来ました! 元々その話がしたくて書きだしたんだけど、収拾つかなくなってきたので無理やり繋げました!

まずこの映画めっちゃ出来がいい! 情報の出し方無駄なさすぎ! 限られたセリフで人物の性格示しすぎ! 単なるハラハラドキドキ映画に収まらない皮肉と深みで観客の心揺さぶりすぎ! 最高でした!!! 完!!!! 

…この『ギルティ』話題作なので、いい感想やレビューがいくつも上がっており、もう私がクチャクチャ言う必要なんてないかなって感じなのですが、ほら、主人公のアスガーさんが、かなりの《我、善成(ぜんなり)》人間じゃないですか…? だからその辺について少し書きたいなと思いまして…

※この先、ネタバレへの配慮なしなので未見の方はご注意ください

まずアスガーさん、はじめからめちゃくちゃ《自業自得》って言うじゃありませんか。ラリって電話してきたヤク中、買った女に強盗されたおじさん、もう全然優しくない…。同時にアスガーさんは「6歳の女の子に必ずママを無事に帰すって約束したんだ!」とシフト終了後に自主残業して事件解決を目指すいい人な面もあるんですが、彼の視点で《善》ではない、もしくは《悪》だとジャッジしてる相手に対してはそりゃあ冷たいし、何なら見下しているわけですよ。

この映画、上映時間たった88分だし、回想シーンも場面移動もない。けど、アスガーさんが何を切り捨て、見下しているのかは十分すぎるくらい描かれている。

・緊急電話センターの仕事。緊急電話センターで働いている人たち。
・薬物中毒者。買った女に強盗されるヤツ。大したことない用事で救急電話かけてくるアホ。
・犯罪者全般。
・赤ん坊を保護してくれって頼んでるのに、ろくな確認もせず「もう死んでる」とか言って引け腰になってる現場の警官。

というかこの人、基本的に世の中の大半の人を見下してるんだろうな。それ以外の関わり方知らないんだろうな、というのが悲しいほど言動に滲んでる。はっきりとした描写はないけど、まぁ実際ボスや相棒のことも見下してるんだろうし、最近出て行ったという奥さんのことも…ね。たぶんね。

そういう考え方が高じていった結果、アスガーさんは「殺せたから」という理由で若い犯罪者を《わざと》殺してしまう。だから望んでない電話番の仕事をさせられている。アスガーさんが誘拐事件解決のために七転八倒してる《今日》の翌日には、その件に関しての審議があって、アスガーさんも、その相棒も、アスガーさんのボスも、《正当防衛だった》という嘘の供述で責任逃れしようと決めている。でもたぶん、アスガーさんも相棒もボスも、まだ自分たちが《善》だと思ってるんじゃない? 嘘をつくことに全く抵抗がないとまでは言わないにせよ、「いいじゃないか。どうせ犯罪者だったんだ。犯罪者を殺してしまったからって、今まで刑事として市民のために頑張ってきた俺(アスガー)が裁かれるなんておかしいだろ。これは正しいことなんだ」ってたぶん思ってるよな? じゃなかったら、前半みたいな《ナチュラル人見下し》の態度は取れないだろうし。

しかし私は「じゃあアスガーさんは悪人な!」と言いたいわけではなく、完全に善人だとは思うんですよ。じゃなかったら、主人公ヅラ全開で88分間事件解決のために頑張らないだろうし、そもそも刑事さんなんて目指さないだろうからさ。アスガーさんは《善人》で《正しい》からこそ、自分の《善》の基準に達してない人間を容赦なく殴ることができる。なんなら比喩表現でなくマジで殺せる。しかも殺しても、「早く刑事の仕事戻りたいっすわー」と談笑できる程度には悪びれずにいられる。

いや悪人じゃねーか! 自覚ない分もっとタチ悪いわ! と書いてる私も思いますが、まだ《アスガーさんは善人》という主張を続けさせてください。

アスガーさんは《誘拐事件》に遭遇する以前、自分を《善》と認識していた。しかし彼はこの事件解決のため奔走中、大抵の行動が裏目に出ます。

「ひとりじゃ心細い? じゃあ弟の傍にいなさい!」
→弟ズタズタに切り刻まれて死んでた\(^o^)/いたいけな6歳女児が血みどろ死体と待機するハメに\(^o^)/

「レンガを握れ! 君の夫は悪い男だから殴ろう!」
→赤ん坊殺しの犯人は妻\(^o^)/誘拐犯と思ってた夫は妻を精神病院に運んでただけ\(^o^)/

などなど…(この辺り、この映画のちょっと笑えるポイントですよね)

そんな取り返しのつかないミスを何度も犯したことで、アスガーさんの中で確固たるものだった《俺は善人、正しい人間》という認識が揺らぎ、何なら崩れ去っていく。そしてラスト寸前、失敗を重ねながらも唯一守り通そうとしていた「ママを無事に帰す」という約束さえ守れなくなりかけた時、アスガーさんはようやく自分は善人でもなければ正しい人間でもなかった=自分の犯した殺人は故意であり、《悪》だったと認められたのかなと思います。

でもね、ただ認めるだけじゃなくて、アスガーさんはそれをバラすし、何なら自殺しかけているイーベンを引き止める手段として使うじゃないですか。それはやっぱり、《善》じゃんと思うんですよ。

(見終わった後にまっさきに思い出したツイートを貼っておきます)

アスガーさんは《殺せた》犯人を殺してしまうことで、「何かを取り除こうとした」と話していました。イーベンはそれを《蛇》だと表現した。アスガーさんもイーベンも、自分の心や頭の中に巣食った《蛇》を殺すために、死ぬ必要のない人の命を奪ってしまった。それは本当に酷い、最悪なことだけど、私はそれでも全部の始まりまで、そして終わりの瞬間まで、全部《悪》になったとは思えないんです。

《善》が高じすぎて《悪》になること、《善》でいることを頑張りすぎて《悪》になること。それ以外にも、私には思いつかないいろんな理由で人は《悪》になってしまうのだろうけど、「市民を守るのが仕事だ」って言ってた時のアスガーさんと、「これでオリバーは助かったのよね」って聞いてきた時のイーベンは、たぶん本気でそう思っていたはず。《人は条件次第で誰でも犯罪者になりうる》んでしょうけど、それってつまり、条件が《悪い》だけで、人間そのものはみんな《善い》ものってことになりませんかね? 

こんなこと考えてたら、自分とか、自分に近い人が殺されたり酷い目に遭わされた場合、《罪を憎んで人を憎まず》を実践しないといけなくなって辛いだろうなと想像します。その時は案外、元々の考えなんて捨てて全力で相手を憎むスタイルで行けるのかもしれないけど、でも、そうなる前の自分がここまで書いてきたようなことを思っていたことは覚えているだろうから、忘れてるように見せかけて心の奥は矛盾に引き裂かれて辛いだろうな。

それはきっと本作におけるアスガーさんも同じで、すごく《善》でいたかったのに、結果として人を裁き、見下し、時に痛めつけるのも意に介さない《悪》になっている矛盾が、彼の《蛇》になってしまったんじゃないかなと。でも彼はこのひと晩の事件を機に、自分を壊し、本来の彼なら望むはずもない殺しにまで駆り立てた《蛇》=《矛盾》を、少しは駆除できたんじゃないでしょうか。

だから私はこの映画をハッピーエンドだと思いましたし、1番に浮かんだ感想が「自分がこんな目に遭ったら『神様っているんだな』って思うだろうな」だったんですけど、どうでしょう? あとそうだ、ラストで電話してる相手! ボスか相棒か奥さんだろうなと思うんだけど、アスガーさんは見下し型のコミニュケーションが主になってしまってるだけで、自分の身近な人を大事に思ってないわけじゃないんだよな。だから、独善的な対応をしてしまったあと、思い直したように「ありがとう」って付け足すんですよね。

それが悲しいし、気持ちがわかるから、許したくなる。そういうわけで私は、アスガーさんはいい人だって言い張りたいのかもしれません。

(なんか変わった日記になってしまった。写真は光の具合で人間っぽく見えるアリータ人形)

「スキ」を押すとめちゃめちゃ面白くてオススメな小説の名前が飛び出すよ!