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意味について(詩論 エッセイ)

意味は人間だけが持つ。これは自然言語である言葉によって恰も担保されるように感じる。しかし、その根源には、言葉はない。我ら人間は、誤解をまだ続けている。つまりは、言葉が全てを表すことが出来ているという誤解である。我らの想像には限界の枠がある。人間は不完全であることは自明だが、そのことを我らは理性では理解しているのだろうか。本能は当然、それを理解している。これが「恐怖」の源の一つであるだろう。つまりは、言葉と意味には限界がある。その使い手と受け取り手である人間の限界による故に。
わたしは、詩が意味を恰も離れようとするのは、この限界の輪郭を巡ろうとする行為であろうと考えている。意味のない単語(ガラクタの塊)や、論理のない文脈というのは作りえるが、その文を眺めることは出来ても、理解することは出来ない。そこに論理がないからであり、つまりは言葉という形を持った、パズルである。そこから、思いもかけない効果のような見えなかった論理が浮かび上がったとして、それは偶然である。その偶然から生まれた新鮮な論理たちを集めて、注意深く描かれた抽象画のような詩を作るならば、それは意味のあるものとなるだろう。
しかし、「意味のない言葉」を求めるという行為だけに、単なる素材採集でしかないその行為に空虚な重みを持たせようとすることは、怠惰或いは傲慢である。繰り返すが、意味とは人間がその想像の範囲内にあるものごとを、意識のレベルに置くために、つけた始まりの名前(ラベル)である(肉体的な欲望のための行為は範囲の外に置く)。その前にあるものは、名前のない何かであり、そこに我ら自身も含まれている。これから「発見」される新たな意味を、言葉で探求する行為を、或いは詩と呼ぶ。だが、古来言葉はそのことを知っていた。恰も洗練されて明晰になったように見えるが、言葉とは未だに未成熟で在り続けている。これは前述の通り、人間の不完全さによる。
不完全な理性の限界を突破する鍵は他者との交流にあるように、不完全な自然言語の論理の限界を越えるためには、自然言語以外の理論との交流が不可欠である。これが絵画であるか、音楽であるか、個の屈託であるか、サブカルチャーであるか、遥か聳える銀嶺の輝きであるか、宇宙科学の発見であるか、最新のテクノロジーであるか、触れ合う動物たちの無垢な魂であるか、それらは恐ろしいほどの慣性を持って、我らに流れ込んでくる。この抗えない見えない運動の先に、知的な刺激が新たな意味を発見し続ける。この慣性の導きに従うならば、遠い未来、或いは5千年後、一万年後に、我らという存在はその限界を突破するだろう。もしそうでなければ、必ず我らは自滅する。つまり、この一見価値のないような詩というものの持つ意味とは、この既存の意味を離れ新たな意味と混ざるための行為の意味とは、このようにあるとわたしは今、考えている。