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生命を未だ言葉で語れない音楽のようであればもしや


生命を未だ言葉で語れない音楽のようであればもしや

クラシカルな歌詞のない音楽は感情へ響く。それは祈りへ続くものである。表情のない絵画のように、個人を越えて表現されることで、言語を問わず感情へ響く故に。我らは未だ生命を語れない。それぞれの文化による”べき”が確固として有る故に。生命を語ることは即ち死を語ることだから、それにはどうしても言語のしがらみから離れることができない。どうして言葉が微に入り細に陥るか。不明の者へ説明を強いられる故だ。言葉もまた表層に過ぎず、形になる前の意味たちの文脈を伝えるためのものである。形なき文脈を分からぬ者へは決して伝わらない事実がある。しかし、恰も己に分かることは他にも必然に分かるだろうという、自己過少評価と他の善なることを信じる心が、過ちを生み続けている。人々が言葉について、誤解している。書かれていることは即ち理解できると。しかし、言葉は常に高度化していく。現代において、途轍もなくその速度は速まっている。過去と現代の天才たちの文脈が溢れだしている。これを全て分かろうとしても、一部を除いた大多数には到底難しい。まるで難しすぎる哲学書を読み進めるように、何となく有難がって従っているように思えてしまう。しかし、そうではない。そうであってはならない。美しい音楽を聴けば美しいと感じるように、ただ真っすぐに言葉を批判しなければならない。生命が己の中にあるのだから、その言葉を聴けばよい。言葉は問いと答えで成り立つものだから。