わたしにとっての詩の書き方~2022~

わたしは、詩も散文のように雑種でいいと思う。別にマニエリスムのような現代詩が悪いとか嫌いとかではなくて、それが美しく作り上げられているなら、それも一つの素晴らしさであると思う。しかし、現代詩はもっと自由であっていいと思っている。物語があってもいいし、幻想であってもいいし、重厚な歴史であってもいいと思う。ある程度の透明度と詩文としての完成度は、必要だとは思うけれど、わたしは現代詩はもっと雑多でよいと思う。様々なカテゴリを取り入れて、MIXされた論理であっていいと思う。サブカル、テクノロジー、化学、科学、哲学、電子音楽、クラシック、etc。無論、わたしは浅学な故に表面しかなぞれないところもあるけれども、そこからの声がやってきたら、その声を行分けされた文にしたいと思ってしまう。
 そして、この情報氾濫の時代にあって、その方向へ向かうことは止められないのではないかとも思える。言葉は雑種として広がっていく。わたしたち自身もまたそうであるように、詩文もまたそのように染まっていくと考えている。

わたしは、詩のようなものを書き出して7年ほどしか経っていない。ようやくそれらしいものが書けるかなと感じ出したのも、ここ2~3年である。しかしそのころから、詩人の天命というとかなり大袈裟かもしれないけれど、一つ確信を持っていることがある。サン・テグジュペリが”大いなる言葉”と呼んだもの。この時と場所を選ばず、媒体を選ばず、降るように、”襲い掛かる”ように、貫くように訪れるもの。天啓にすら似た、この見えないもの。言葉にはまだなっていない信号のようなものが、不意に言葉を得る瞬間がある。この”大いなる言葉”の翻訳者であろうとしている。これは様々なものから受け取ることがある。真理に満ちた哲学書や生まれたてのリズムとメロディー、映画の突き刺さるテーマ、迫真のシーン、目を離せない表情や惹きつけられる声。感情のない涙や千切れるような怒号。豪雨の濁った流れや季節特有の澄んだ光。宇宙科学の果てしない星の記事や発見された化学物質の信じがたい特性の記事。知らなかった言葉の裏側の意味や思いがけなく共感する見知らぬ人たちの暮らす夜。まるで、今もわたしたちを通り抜けている素粒子の粒のように、数限りない信号が降り注いでいて、こちらと波長が合うときに、それらを受信するのだと考えている。その信号を復号し、翻訳し、出来るだけ整えて、テキストの形にしたとき、どうしてもそれは詩の形に親しくなる。だから、わたしは詩を書くのだろうと最近は考えている。

《イヴ》 藤田嗣治 1959年