山田詠美 つみびと を読んだ

初めまして。
いろいろある人生ですが、無職になりました。

noteは読んではいたけど、投稿はしたこともなく、よくわかってないまま勢い投稿します。

以下、2019年6月2日 つみびと 山田詠美 著 について感想を書いたものをここに投稿します。


幸せになりたかっただけなのに
どうしてこんなにも虐げられ
罵られ、蔑まれ、
拒絶され続けてしまうんだろう

暴力、性暴力、言葉の暴力、放置(ネグレクト)などのあらゆる暴力と
男たるもの、女たるものかくあるべし的なジェンダー圧力、
貧富、学歴、お家柄=血筋

などなどなどなどにおいて世の中の至る所に様々な形で存在する強き者が持つ無邪気な圧力と弱き者が無意識に植え付けられる屈服感。

子供や女性への暴力と性暴力の描写は不安発作が起きそうになるほどに絶望的な気持ちになってしまう。

わかりやすい暴力だけではなく、目に見えない気がつかない暴力もたくさん描かれてるのだ。
「〜なら〜でなければならない」というものが正しいっていう暴力

その力の高低差、強弱の幅の中で、必死に生きている人たち。
今より幸せになるんだ、というかつては希望を持っていた人たち。

捨てた人は、実は捨てられた人であり、
捨てられた人が、これから捨てる人でもある。

それでも何か、誰かを見つけられた琴音、勝は唯一の希望の光のように思えた。
勝は捨てられたのではなく、自らが捨てて、誰にも頼らない道を選べた。

捨てられた人すべてが、弱く、惨めであるわけでは決してない、という存在をさりげなく描いている点は希望だ。

桃太のもっとも弱き者の視点からの章は、子どもが豊富な言語をもち駆使できる力があれば、こういうことを考えて伝えられるんだろうと思った。
自然に言葉と情景が入ってくる描き方であり、置き去りの最中、また、薄らいでいく意識の中の言葉は心が異様にかき乱され、先を読むには息を整え、背筋を伸ばして泣かずに読み進めなくてはならなかった。
彼は、私より切実に誠実に愛を欲し、母を求め、強烈かつ圧倒的な喪失を経験した人間なのだ。
生き様通り、命を賭して。

その彼が、母の様子を幼いながらもしっかりと察知している。子供は大好きなママをいつも察知する能力を持っている。

泣いていた母が「がんばれ、がんばれ!」と自らを鼓舞して必死に乗り越えようとしている姿を。
不安定な母から発せられる不穏な空気をきちんと察知し、おびえ、しかしながら、大好きなママに愛されているともわかっているのだ。

親友の家で、母子が歓待され楽しい楽しいと笑って帰る道でベビーカーを押しながら、チキショー、チキショーとうめきながら泣いて帰る母・蓮音に桃太が気がつくシーンには、特に胸が詰まってしまった。

チキショー。
どこで、間違えたんだ?
私は幸せになりたかっただけなのに。
どこで、失敗したんだ?
(大雑把に抜粋)

そこから、親友とのつながりも自ら手放していく過程は、完全に理解できる。
「みんな幸せなのに、なんで私はこうなんだ?チキショウ!どこで間違えたんだ!」と歯噛みしているのは私も同じだからだ。
友達との食事は楽しくて仕方がないのに、一人帰宅途中に「彼女らは幸せで、すべて持っているのに、なんで私はこんなに惨めなんだ」という気持ちと戦いながら電車に揺られて帰ったりしている。
それは今もだ。今後もずっとそうだろう。

ただし、この考えの行先は常に同じで絶望とただの自己憐憫だ。
「私が生まれてきたことそのものが間違えだったんだ。
何をやっても意味がない。
何をしていても楽しくなれない。
誰も幸せにできていない。
ただただ生きているのが辛くて仕方がない」という結論
に着地するしかないからだ。

蓮音は、懲役30年の刑に服している。
むしろ私はうやらましい。
30年、やるべきことを与えられていることに。
誰か(子どもたち)のために、すべき(償う)ことがあることに。

私は蓮音に聞きたい。
「子どもを愛していた。うまくできなかった。
殺す気は無かった。懲役30年。そこまでは、まあ、置いておこう。
で、自分は?希望とか持てるの?
刑期を終えた30年後のあなた自身はどうしたいと思ってるの?」と。

登戸で起きた殺傷事件の犯人は、かつて、両親から捨てられた子だった。
でも彼にとっては、かつてではなく、自死する直前までも続く「捨てられた人間である」という虚無感であり、普通になれなかった憎しみだったのではないか。
だからと言って、無差別に道連れにされた方たちの死と痛みと恐怖は理不尽の極みだ。許してはならない。

でも、山田詠美は「子供たちの受難は、そのまますべての人間の受難にも通じています」
という言葉の意味の一部が、こういう形でも現れてしまっているのではないかと思ってしまった。

高校生の頃から山田詠美が大好きだった。
出版された本はおそらく全部持ってる。

サイン会に行き、サインをもらって握手した時、膝がガクガク震えてしまった感覚も、その時の著者の反応も私には大切な瞬間だ。

でも、愛情あふれる親に大切に育てられた著者が、
数多の恋愛を経て信頼できるパートナーと再婚をしている著者が、このような題材を選び、このような小説を書くとは思いもしなかった。
読み終わった時に、ふーん、幸せな人から見たら、こんなもんだよねっと思ってしまうんじゃないだろうかと、あまり期待せずに読んでみた。(相関関係のページに付箋を貼って何度も見返しつつ読み進めた)

見向きもされなかった人、捨てられた人(去られた側)として生きていくことと、残された子を育てることでいっぱいいっぱいの私は、もうかつてほど寛大な気持ちなんて持っていやしない。
以前の自分とは全く変わったため、贔屓目はない。

ところが一気に引き込まれてしまった。
そうだ、彼女はプロの作家なのだ、と改めて思い知った。
日経夕刊を買ってなかったことを後悔したくらいだ。
(重くて当時は毎日読めなかっただろうけど)

どうしても説明しがたい人間の理解されない行為を
または、もっとも弱き者の感情を
きちんと言語化できる著者の力量にただただ感服した。

受難から救われるには何をすれば良いのか。
どうしたら良いのか。

読み終わった後、ずっとずっと考えて続けている。

考えている最中に、
元事務次官の男が40代の息子を殺し、
2歳の女の子が母と同棲男性から虐待され殺されたニュースがTVで報道されている。

どうしたら良いのだろう。
ずっとずっと考え続けている。




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