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「シン・ジャニーズ白書」

abstract

さすがにね? 


あまりに急速に「ジャニーズ」と関わっただけで、「正しさ」が奪われていった。

もはやジャニーズは日本の「ケガレ」になったというべきだろうか。

日本航空、日本生命、明治、サントリー、サッポロ、キリン、日産自動車、モスバーガー、マクドナルト(以下略)はじめ、多くの名だたる企業がジャニーズ関係の契約をみなおしはじめている。そんな中、アサヒグループホールディングスの社長がいいだした。


「ジャニーズ起用を継続すれば人権侵害に寛容であるということになってしまう」
「人権問題の解決について真摯しんしに考えた」
「人権を損なってまで必要な売り上げは1円たりともありません」


朝日新聞のコメント欄には「アサヒビールHDの姿勢に学べ」「アサヒビール社員は気持ちのいい人ばかりだ。」などという絶賛コメントもあった。

だが、目を転じてSNSの反応をみれば、「え?アサヒの人間は一般人でも知ってたジャニー喜多川の性のスキャンダルを今まで知らなかった?」とか「アサヒは情弱だったということか」などと話題になった。

当たり前だが、そもそも「人権を損なってまで必要な売り上げは1円たりともありません」というならば、人権侵害大国の中国市場に媚びながら、ビールを売り続けるほうがよっぽど「人権侵害に寛容」なメッセージなのではないか、ということになる。

ウイグル等の人権侵害も我関せず、今日も元気に現地でビールを製造しながら、「人権を損なってまで必要な売上はない!」と言い放つとは、結局は話題になった人権侵害問題だけに対応するということだ。

つまり「正しさ」のトレンドだ。

さらには脳科学者の茂木健一郎氏などになると、今までは「SMAPは才能にあふれ国民的アイドルの名にふさわしい存在」など事あるごとに激賞していたくせにジャニーズへの弾劾が熾烈化した途端、「ジャニーズに騙される人は教養が根本的に欠けている」と言い始めたのだ。


もはや単に「お前らなんでジャニー喜多川氏がいきてる時は何も言わなかったの? 」というレベルを遥かに超越して、ジャニーズからは音楽性からコンテンツ性まですべての「正しさ」を剥奪していく仕草である。

たとえば「この蕎麦屋はおいしくて地域に愛されてます!」などと褒め称えていた人物が、その蕎麦屋の店長による性犯罪を騒がれた途端、「あんな蕎麦を食べていた人間は味覚障害だ!隣の洋食屋でナポリタンをたべるのがグルメ」と言い出すようなものだ。蕎麦屋の店長が「悪」であることと、彼の作り出した「蕎麦」の区別がつかない。ひたすら「正しさ」が奪われる。いや、笑い事ではない、これはいかにもな「キャンセルカルチャーの精神」である。

これは「正しさ」の「勝ち組」乗る人々の姿だ。一度、社会の「正しさ」の風向きが変わった途端に、極端から極端に移動しているに過ぎない。

いままで散々、「聖戦完遂!」「鬼畜米英」と戦争を煽って民衆を扇動して儲けてきた朝日新聞やらマスコミや知識人たちが、大東亜戦争で日本が負けた途端、「世界に冠たる平和憲法」「日本人は反省しろ」「マッカーサー元帥ありがとう!」と言い始めた卑劣さだ。まるで「私達は最初から言ってましたよね?」という態度で恥じることを知らない。

テレビ局各社もジャニーズ騒動に関して、「人権を尊重した企業活動を努めます」等のキラキラした声明をだし、民放連会長も「人権侵害の認識持てず反省」などといい出した。「人権人権」の掛け声だ。

しかし、そもそも「なぜ報道できなかったのか、忖度してたのは具体的に誰なのか」と過去の究明はしないのだ。ただただ「私達は反省しています」と全体主義的に道徳に酔いしれているだけである。

朝日新聞などは次のような記事連載をはじめた。

「故ジャニー喜多川氏の性加害がなぜこれほど長期間、多数の少年への加害はなぜ放置されたのか」(朝日新聞)


――なぜもなにも、やはりSNSの声をまとめれば「マスコミがメディアを支配するタレント事務所の権力に忖度して、とりあげなかったからだろ」といわれた。

だが要するに今回明らかになったのは「マスコミ」はただただ「正しい側」とみなされた側への増幅機能しか果たしてない。こっちが「正しい」と一度、社会の「正しさ」の風向きが変わった途端、極端から極端に移動するだけで何も変わらないのが日本のマスコミなわけである。


この「正しさ」の変化はどこからきたのか。


「なぜジャニーズ問題がこれほど長期間(というかジャニー氏が死ぬまで)放置されたか」もなにも、そもそも「正しさ」が獲得できないからだ。


以前から書いてきたように、ジャニー喜多川氏の性加害の問題がずっと長期間にわたって、マスコミに放置されたのも、これが被害にあっていたのが「少年」であったからだ。そしてさらにいえば「女性の不快をかわない世界」だったからだ(その仕組はのちほど解説したい)。

当たり前だ。仮にこれが芸能事務所にいる「少女」たちが数十人から数百人レベルで、それこそ「広義の強制性」で、「事務所の権力者に性奉仕させられた」とかいう疑惑ともなればいくらジャニー喜多川氏が絶大なテレビ業界を支配する「権力」を握っていようが(単なる疑惑であっても「推定有罪」で)、とっくに世の「女性」たちは沸騰し、ジャニー王国解体されてましたよね、という話なのである。


どうして「男性の弱者性」を社会は決して認めることができないのか? 最終回答しよう。

ここで問わなければならない。今までだって、「弱者男性論」――「男性こそが真の弱者である」とする――の論者たちは、より多く「女性(または、かわいそうなもの)」にばかり配分されていた「やさしさ」(弱者救済)を、自分たち「見えない弱者」に奪還したい主張を喧伝していた。宣伝が足りないとは思えない。だが、それがどうして成功してこなかったのかという問題だ。なぜなのか。この理由がまさにこのジャニーズの騒動をめぐる言説に凝縮しているのだ。

今回は「どうしてジャニーズの性加害問題への追求が一転して急激に”正しさ”を獲得したのか」――その唐突な意味変換のメカニズムを言語化してみた。


そこからわかるのは、私など口をあんぐりあけてしまったのだが、ジャニーズ問題を「正しさ」で騒げば騒ぐほど、「男性の弱者性の発見」をむしろ激しく後退させる巧妙なる「からくり」がつくられたからだ。つまり、

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