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経験すると研究するの違いについて~社会科学における実践者と研究者の関係~

何度か書いているように、私は社会科学の中の実践に近い分野を研究している。
実践に近い分野とはなんぞ、という方に向けて言うと、いわゆる「実学」というやつだ。

実生活に役立たせることを目的とした学問のこと。工学・医学・薬学・農学・法学・経済学・教育学などを指す。日本の大学では、理学部と文学部で扱う学問分野以外は概ね実学である。
出所:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E5%AD%A6(2019年7月15日訪問)

研究する中で定期的に聞かれるのが、「自分はやったことないのに研究なんてできるの?」という問いだ。
「〇〇学の研究者なのに自分は〇〇しないのっておかしくない?」と言われて、何がおかしいのかわからなくて固まったこともある(〇〇には教育とか、臨床心理とか、経営とか、そんな感じの言葉が入ると思ってほしい)。
〇〇学の研究者”なのに”と言われても、そんなの問題じゃないという前提が私の中で強すぎて、どうしてそこに「なのに」を違和感なくつなげることができるのかすらよくわからないのだ。

なぜ、やったことがなければ研究できないと思われるのだろう。
じゃあ、先生になったことがなければ教育学はできないし、農業をやったことがなければ農学はできないし、政治家になったことがなければ政治学はできないし、病気になったことがなければ医学はできないのだろうか。
そんなわけないだろう。
経営学の研究者が優れた経営者とは限らないように、実践と研究は、結びついてはいても直結はしていない、というのが私の意見である。

確かに、関連する分野で職務経験を積んでから、自分なりの問題意識をもって大学院に戻ってくる院生もいる。
そのまま実践の場に戻らずに研究を続け、研究者になる人もいる。

私の分野とある研究者は、そういった研究者と、ストレートで研究者になった自分とは、役割が違うのだと言っていた。
経験があると、どうしてもデータを見る時にバイアスが掛かってしまい、フラットな目線で見れなくなる。
研究の役割は真理を追究することであるから、バイアスは時に真実から人を遠ざけもする。
だから、バイアスが掛からない目線で真理に辿り着くのが、自分のように職務経験なしに研究者になった者の役割なのだと。

私の友人の指導教官は、社会人院生とストレートで進学した院生とでは異なる強みをもっていると言っていたらしい。
社会人院生の場合、より実感を伴っているため、問題意識が明確だ。一方で「問題解決のための研究(のような行為)」になりやすく、「新しい知を発見する」という意識が薄くなりやすい。
ストレートで進学した院生の場合、想像で実践の場について語ることが多いため抽象的な議論になりやすいが、一方で俯瞰的な視点を維持できる。

私は2人に概ね賛成で、実務経験の有無は、是非を問うようなものではないと私は思っている。
実務経験があると、ない場合とは違った視点をもつことができるというだけの話で、経験が無かったら研究できないことはない。

1つ思うのは、「勉強とは(自分の仕事/生活に)役立てるためにするもの」という前提をもっている人が多いのだろうな、ということだ。
私にとって、「知りたい」という欲求と「やりたい/やらねばならない」という欲求は別々のものだ。
「勉強とは(自分の仕事/生活に)役立てるためにするもの」という前提が強くあると、「ただ知りたいから学ぶ」という行為がまったく理解不能なものに見えるのかもしれない。

「この感覚は、わからない人にはわからないでしょ」と切り捨てるのは良くないけれど、かと言ってなんと説明すれば伝わるのか。
「やったことないのに研究なんてできるの」と聞かれる度に考えるが、答えは出ていない。

最後までお読みいただきありがとうございます。 これからもたくさん書いていきますので、また会えますように。