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自己責任という言葉と想像力

行動の理由を、心の内に求める
自己責任、という言葉がある。
いろいろな解釈の仕方があるだろうが、私は「誰かの行動の理由を、その人の心の内に求めること」だと思っている。
「そうしたかったからそうしたんでしょ?だから結果こうなったんでしょ?」という考え方のことだ。

この考え方、至る所でよく見る。
「勉強したくなかったからさぼったんでしょ?だから偏差値の低い大学にしか入れなかったんでしょ?」
「あなたの心が弱いから厳しい上司に耐えられなかったんでしょ?だから会社を辞めちゃったんでしょ?」
「努力したくないからしなかったんでしょ?だからそんなに社会的に高い地位を得られなかったんでしょ?」
etc...

言い換えれば、「人生は自分の意志次第でいくらでも切り拓ける」という考え方でもあるだろう。
努力してきた人、いわゆる世間で「エリート」と呼ばれる人ほどこういう考え方をする人が多いように思う(偏見かもしれないが)。

だが、「本当にそうか?」と立ち止まって考えてほしい。

いろんな可能性がある
偏差値の低い大学に通っているのは、本当に勉強をさぼったからだろうか?
家庭の事情で勉強に割く時間が取れないとか、勉強を教えてくれる人が身近にいなかったとか、大学に進学するための費用が確保できなかったとか。
心が弱いから厳しい上司に耐えられないんだろうか。相談できる先がなかった、プライベートでもトラブルが重なった、その上激務で寝る時間もなかった、そういう可能性は?
努力するにもしたところで認めてもらえなさそうな環境だったかもしれない。あるいは、生まれてから今まで、努力の仕方やメリットを学ぶ機会がなかったのかもしれない。

「自己責任」という言葉に潜む傲慢さに、私はぞっとする。
あなたが達成したことは、本当にすべてあなた1人の意志の力によるものなのだろうか。
助けてくれる人や環境があってこそだったのではないだろうか。

「自己責任」の一言で片づけることは、自分が経験したことのない状況にある人のことを切り捨ててしまう危険性を孕んでいる。

プラスの行動だけでなく、マイナスの行動にも言えることだ。
なぜあの人はパワハラするのか。
なぜあの人は家賃を滞納するのだろう。
なぜあの人は不正したのか…。

そういった行動を肯定したいわけでも、擁護したいわけでもなく。
「なぜ」その人がそうしたのか、心の内だけでなく、その人が置かれていた状況から考えてみる視点―「そうせざるを得ない/そうしたくなるような状況だったからそうした」という考え方をもっとしてもいいのではないだろうか。

「この人にはこの人の事情があったのかもしれない」と想像すること
私だって、あなただって、何かの条件が重なれば、自分でも予想だにしていなかった行動をしてしまうかもしれない。
家族がいるのに仕事を失って、どうしようもなくお金がなかったら万引きしてしまうかもしれない。
追い詰められて、助けを求める気力も奪われたら、メンタルの病気になるかもしれない。
子どもが言うことを聞かない上に、友人も家族もいない土地に引っ越したばかりで頼る人もいなかったら、小さな子どもに怒鳴ってしまうかもしれない。

「その状況に置かれたら、私だってそうしてしまうかもしれない」という想像力。
自分はしないであろうことをしている人に、「この人にはこの人の事情が何かあるのかもしれない」と一歩立ち止まって考える優しさ。

それがある社会こそ優しい社会だし、豊かだ。
私はそれを忘れない人間でありたいし、願わくばすべての人がそんな優しさをもっていてほしいと思う。


最後までお読みいただきありがとうございます。 これからもたくさん書いていきますので、また会えますように。