見出し画像

教員の働き方、あと学校の役割が多すぎることについて、かつて子どもだった立場から

なんだか今日は朝から気分が重いなあと思っていたのだが、目が覚めてからのことを思い返してみて、ああ、これが原因かと思った。

昨日の参院選に関わる番組の中で、某タレントが教員の働き方について持論を述べていたらしい。

「何かあったらどうするんですか? もし子どもが帰ってくるのが遅くなって心配になって、見つからない時に学校に電話をするのが親だと思う。それも対応してくれないってことですか」と反論。教師が「子どもが帰ってこないのであれば警察が対応しますし」と説明すると、「えー、寂しい」と嘆いた。
出所:https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201907220000234.html
『ごくせん』観て育ったでしょ、みんな『金八先生』観たでしょ。
出所:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190722-00010000-wordleaf-ent

この人はもう謝罪しているようだし、更に怒るつもりはない。
私は放送を見ていたわけではないし、上の報道が恣意的に編集されている可能性も考えて、ただこのコメントを見て思ったことについて書いておく。

私は教員の子どもである。
幼い頃から仕事に奔走する姿を見て育った。

平日夜はいつも持ち帰り仕事をしていたし、土日も大抵仕事をしていた。
保育所で一番最後に一人残って待っていたこともざらにあった。
自分の学校の行事と、勤務校の行事が被ったことは幸運にもあまり無かったけれど、私の友人で親が教員をしている子の中には、学校行事の半分くらいしか親が参加できない子もいた。

そんな環境で育ったから、私は働く大人とはみんなそんなものだと思っていた。
すなわち、朝も昼も夜も暇さえあれば仕事をしているのだと。
私よりも自分のクラスの子どもの方が大切なんだと思っていたこともある。
それは仕事なんだから仕方ないと思っていた。

今ならわかるけれど、それは決して普通ではない。
むしろその労働環境は異常である。
児童に労働基準法を教える先生方は、労働基準法なんて無いかのように働いている。
自分や自分の家庭のための時間、エネルギーを削って。

件のタレントはフィクションを引き合いに出しているようだけれど、フィクションはあくまでフィクションだ。
お話として面白いように演出・脚色されているに決まっている。
もし同じようなことを思っている人がいるなら、冷静になって、フィクションと現実の区別をつけてほしい。
(ついでに言うと、パブリックな場で『寂しい』なんて感情だけで話をするのも思い留まった方がいいと思う。人間には理性や知性が備わっているのだから)

教員の負担の多さは、学校が担う役割の多さに起因している。
学校に多くの機能を負わせると、教員の負担が増えるだけでなく、そこに通う子どもにとっても負担が増える。

学校が「勉強を習う場」、「友達と会う場」、「勉強以外のこと(=課外活動、部活)をする場」と多くの役割を担っていると、子どもにとって学校が世界のすべてになってしまう。
それは、学校でうまくいかなくなったら、世界のすべてに否定されたような気分になってしまうリスクを孕んでいる。

早く現状に変化が起きてほしい。
子どもが生きる場は、もっと色とりどりでいい。

詳しくは別の機会に書くけれど、私にとって義務教育はつらい場だった。
よく不登校にならなかったと思っている。
学校が好きだから行き続けたのではなくて、不登校になる方が面倒そうだったから行き続けただけだ。
あの頃、学校でも家庭でもない場があったらどんなに救われただろう。

専門ではないから詳しいことは知らないけれど、NPOや民間で、子どものための様々な取り組みが、自治体単位で行われているはずである。
少しずつ役割分担が進んで、教員にとっても子どもにとっても生きやすい社会が来ることを祈っている。

最後までお読みいただきありがとうございます。 これからもたくさん書いていきますので、また会えますように。