「見られる用文化」のはざまで③―本当に「わたしは、私」か?
書きかけの記事があったのですが、女性の「見られる用文化」に関わることで、正月早々気になるトピックスが浮上したので、そちらを先に書きます。
最近話題の西武・そごうの広告です。
すでに出ているいくつかのわかりやすい批判を紹介します。
このことに関して、「見られる用文化」の観点から考えるとどういうことになるだろう?と考えていました。
すると、こんな言葉が頭に浮かんできました。
「その私、本当に私か?」
顔にパイを投げつけられても微笑んで、毅然と「わたしは、私」と言い放つ「私」、本当に「私」か?
だって、顔にパイを投げられた時に言いたいことって、「顔にパイを投げるのをやめろ」ですよ。私だったら。
これは比喩表現に対するつまらないツッコミじゃなくてね。
なぜならこの「顔にパイを投げる」という比喩が示していることが何なのか、この広告のコピーがすでに語っているからです。
女だから、強要される。
女だから、無視される。
女だから、減点される。
パイは、女であることによって受ける不利益や理不尽な仕打ちの象徴であることは自明です。
それならなおのこと、言いたいことは「女だからという理由で、パイを投げるのをやめろ」。それだけです。
パイを投げつけられても凛と微笑んで「わたしは、私」と言うのは、私以外の誰かが望んでいる「私」、誰かの期待に応えている「見られる用の私」なんじゃないですか?
…ってこの広告の女性に問いたくなってしまう。
女性が「見られる用文化」に染まることを望むのは、何も男性だけではありません。女性の中にも「女はいつでも見られる(=見栄えがする)姿であるべき、ありたい」と望む人はたくさんいる。それくらい根付いているからこそ「文化」です。
「女にパイを投げつけんのやめろよ!」とストレートに怒るより、「投げつけられても平気よ、わたしは私だもの」とすましている方がそりゃ見栄えがするでしょう。
でも、なんでそんなに見栄えがすることが大事なんだろう。
当たり前に、普通に、思ったこと、言いたいことを口にすることよりも、それは大事なことなのかな。
そしてもし、パイを投げられているのが男性だったら、こんな奇妙な広告は成立したでしょうか。
そもそも、女だから強要されるのも、無視されるのも、減点されるのも、女は主体的な存在ではなく客体として男から「見られる用」の存在であるべき、という価値観のもとになりたっている差別です。
そんな差別に抗う時にすら、「見られる姿」であることを求められるのか。そんな「私」は、私ではないよ。
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